魔法の笛


 姉とケンカをした。
 原因は些細なことだった。冷静になってみれば本当にどうしようもなくつまらないことだったけれど、売り言葉に買い言葉と言うのだろうか、お互い強情なものだから引っ込みがつかなくなってしまったのだ。その後、丸一日口をきいていない。
 窓の外は厭味なくらいにからりと晴れ渡っていた。映画なんかだとこういう時にはじめじめと雨が降っているべき場面だと思う。
 唇に当たるフルートの感触が冷たくて、僕はその日何度目になるかわからない溜息をついた。


 一つ年上の姉は僕の自慢だった。明るく気が強くて、小さい頃から近所の子供たちの中心だった。次から次へと新しい遊びを思いついては、みんなを率いて駆け回っていた。幼い僕はそんな姉の後をいつも追いかけていた。
 姉のピアノもまた、僕の自慢だった。姉が特に好きなのはモーツァルトで、跳ねるような軽快な曲を本当に楽しそうに弾くのだ。そんな姉の姿を見ては僕も楽しい気分になったけれど、僕自身はピアノを習おうとはしなかった。姉からは何度も一緒に習おうと誘われたが、ピアノは女の子のやるものと勝手に思い込んでいた僕は決して首を縦に振らなかった。そんな頑固な僕の態度を見て、姉がいつも残念そうな表情を浮かべていたのを覚えている。
 その頃、僕らはよく両親に連れられてコンサートに行った。そういう時には普段着ないよそ行きの服を着せられたものだが、いつも動きやすい服を泥まみれにして駆け回っている姉が、フリルの付いたワンピースを着て髪にリボンをつけると別人のように見えたものだ。そんなおしゃれが嬉しいのか、音楽を聴けるのが嬉しいのか、おそらくはその両方だったのだろう、姉はコンサートに行く機会をいつも楽しみにしていた。その一方で、着慣れない窮屈な服を着せられてじっと静かに座っていなければいけない時間は、僕にとっては苦痛だった。唯一の例外が姉のピアノの発表会で、きれいなドレスに身を包んでステージの上で堂々とピアノを弾く姉の姿を見ると、いつでも誇らしい気持ちになったものだった。
 そんなわけで、姉が弾くピアノ以外の音楽にはまったく興味を示さなかった僕だが、小学校五年生の時、あるコンサートで目にしたフルートにすっかり心を奪われてしまった。ステージの照明を受けてきらきら光るフルートはとてもかっこよく、その澄んだ音色がいつまでも耳に残っていた。
 僕はすぐに両親にフルートを習いたいと訴えた。それまで音楽を聴いてもつまらなさそうにしていた息子の急変ぶりに両親は少なからず戸惑っていたが、姉はすっかり喜んで、一緒になって両親の説得に当たってくれた。姉の協力の甲斐あって、僕は何とかフルートを手にすることができた。だから、そんな姉を裏切ら ないためにも僕はフルートの練習に打ち込んだ。
 僕がどうにか曲らしきものを吹けるようになってくると、姉はよく僕の伴奏をしてくれるようになった。たいていはフルートで吹きやすいように書き直したお手製の楽譜だった。初めはごく簡単なものしか吹くことができず、姉に申し訳ない気もしたが、それでも二人で一つの音楽を作っていくというのはとても心地のよいものだった。それまで一人でピアノを弾くばかりだった姉にとっても同じだったようだ。ささやかな合奏の時間が二人にとって大切な時間になっていった。僕のフルートの上達に合わせて少しずつ難易度の上がっていく姉の楽譜は何よりも励みになった。


 一言で言ってしまえば、僕は姉が大好きだった。友人たちはシスコンと笑ったけれど、何と言われようと僕の気持ちは変わらなかったし、姉のことを心の底から尊敬してもいた。音楽は僕にとってかけがえのない姉との絆だったし、フルートはその象徴でもあったのだ。


 それなのに、今は一人でフルートを手に立ち尽くしていた。
 もちろん、一人で練習することなど珍しいことではないし、頻度で言えばそちらの方が多い。だが、今はとても空虚な気持ちだった。楽器を構えては溜息と共に下ろす。そんな動作を何度も繰り返していた。心なしかフルートが重かった。まるで今の僕の心のように。
 つまらないことで言い争ったことを心の底から後悔していた。そのくせ、謝ろうと思ってもその一歩が踏み出せないのだ。
 隣の部屋にいる姉も同じことを考えているのだろうか。それとも、僕とケンカしたことなど姉にとっては何でもないことなのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。時折姉の部屋から聞こえてくるピアノは、いつもの軽快なモーツァルトではなく物憂げなサティだったから。
 そんな調子で時間が経っていたが、先ほどからしばらく、二つの部屋のどちらからも楽器の音が絶え、人の気配さえ希薄になるほどの静寂に包まれていた。お互いが意地を張って黙り込んでしまい、沈黙がその場を支配していた。
 息が詰まりそうなほどに緊迫した空気の中、時計の音だけがコチコチと静かに響く。
 予想通りと言うべきだろうか、先に耐えられなくなったのは僕の方だった。
 所在なくフルートを口に当てると、思いつくままに旋律を奏でる。
 無意識に思い浮かんだのはやっぱりモーツァルトだった。オペラ「魔笛」のフルートソロ。主人公タミーノが奏でる魔法の笛の旋律だ。一度目はヒロインのパミーナを探して歌うアリアの前奏として、二度目はパミーナを呼び寄せる笛の音として登場する。
 僕の気持ちがこの旋律に乗って壁の向こうへ届いたなら、姉はどういう反応を示すだろうか。そう思いながら一心に楽器を吹いた。
 ひとしきり旋律を奏で終えると、そのままの姿勢で凍りついたように隣室の気配を伺う。それから首だけをギリギリと回して隣室を隔てる壁に視線を向けた。しかし、何の反応も返ってこない。現実はオペラのようにうまくいくものではないようだ。
 僕はまた一つ深い溜息をついて楽器を持った両腕を下ろすと、今の僕の心には重い楽器をしまおうと机の上のケースを開けた。
 その時だった。隣の部屋からピアノの音が聞こえてきたのだ。
 陽気な旋律は姉の好きなモーツァルト。聴きたくてたまらなかった姉のモーツァルトだった。やはり「魔笛」の中の曲で、パパゲーノのアリア「恋人か女房がいれば」の前奏だった。
 僕ははっと思い出して、机の上に投げ出された楽譜入れを漁った。淀みなく流れる姉のピアノを聴きながら、間に合ってくれと祈りを込める。
 どうにか捜し物は見つかった。姉の几帳面な筆跡で書かれた楽譜は、まさしく姉が今弾いている曲だった。以前、家族で「魔笛」を観に行った後で姉がフルートとピアノで演奏できるように書いてくれたのだ。
 僕は慌てて楽譜を抜き出し、譜面台に置くと、フルートを構えた。前奏の終わりにギリギリで間に合った僕は歌パートの旋律を吹き始めた。姉のピアノは伴奏のオーケストラ・パートを弾き続けている。
 壁を挟んだ奇妙な合奏。それでも不思議と姉の呼吸が感じられるような気がした。弾むような笑顔を浮かべてピアノを弾く姉が目の前にいるようで、僕もさっきまでの憂鬱な気持ちが吹き飛んでしまい、晴れやかな気持ちでフルートを吹いていた。
 一曲終わると何とも言えない爽快感に満たされた。すぐにでも駆け出して姉の部屋の戸を叩きたい衝動に駆られるが、その一方で顔を合わせるのが何となく気恥ずかしくてそのままじっとしていた。すると、同じ気持ちを返すように姉のピアノが再び聞こえてくる。僕はその曲の楽譜を探し出してさっきと同じようにフルートで合わせた。
 そうして僕たちは日が暮れるまで、壁の向こうとこちらでモーツァルトを演奏し続けた。言葉を交わすことなく過ぎた一日の空白を埋めるように、音楽の魔法が僕らの心を満たしていった。窓の向こうに広がる澄み切った青空のどこかで、モーツァルトが無邪気に笑っている気がした。


     あとがき

 ごきげんよう、林原悠です。
 「煩悩世界」初のオリジナル小説、いかがだったでしょうか。分量的には原稿用紙で九枚。短編と言うよりは掌編と呼ぶべき規模の作品です。
 何故突発的にこんな作品を書いたかというと、本日一月二十七日はモーツァルトの誕生日、しかも二百五十歳(生きてれば)の誕生日なのです。そしてもう一人、私の敬愛するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席フルート奏者エマニュエル・パユの誕生日でもあります。というわけで、今回は「モーツァルト」と「フ ルート」をモチーフに書いてみました。
 ちょっとシスコン気味の少年が主人公ですが、決してモデルは私じゃありませんよ。私に姉はいません。
 一人で楽器を吹くのもそれなりに楽しいものですが、やっぱり二人以上でアンサンブルをする楽しさには敵いませんね。私も久し振りにアンサンブルがしたくなってきました。
 今後も音楽をモチーフにしたこういう小説をちょこちょこ書いていきたいと思っています。よろしければご意見、ご感想をお寄せください。

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