お釈迦様もみてる


 学園祭が終わって二週間ほど経ったある秋の日。いつものように薔薇の館に集まっていると、乃梨子が不意に切り出した。
「志摩子さん、今度の日曜日なんだけど、空いてる?」
 山百合会の仕事も一段落してお茶でも入れようかという時だった。
 薔薇の館にいたのは、志摩子と乃梨子の他に祐巳さんと由乃さん。
 三年生の祥子さまと令さまは学年の集まりがあるとかでまだ来ていなかった。それで、集まった下級生で仕事を始めていたのだ。
 仕事自体も学園祭の後片づけのような、簡単な事務処理程度のものだったから、それほど手間もなく片づいた。
 一息入れようということになり、唯一の一年生である乃梨子が率先して席を立ち、電気ポットの前に立った。そうして四人分のカップを取り出しながら先の質問をしてきたのだ。
 志摩子は乃梨子の方を振り返り、軽く首をかしげながら答えた。
「空いているけれど?」
「じゃあ、一緒に博物館に行かない?」
 志摩子の返事を聞いて乃梨子の声はどこか弾んでいるように感じられた。
「いいわよ」
「ほんと!? うれしい」
 乃梨子は、今度ははっきりと嬉しさを隠すことなく満面の笑顔で表した。普段、冷静な乃梨子だけれど、時折こういう風に無邪気に喜んでみせる。志摩子はそういう乃梨子の表情が好きだった。
「デートの相談? いいなあ」
 はしゃぐ乃梨子を見て、祐巳さんは少し羨ましげに微笑んだ。
「どうでもいいけれど、学校では『お姉さま』でしょう、乃梨子ちゃん」
 由乃さんが冷ややかな口調で言った。
 確かに。
 乃梨子が薔薇の館に通うようになったばかりの頃、乃梨子はそのことで祥子さまと口論をしたことがあった。
  それ以来、リリアンの生徒と一緒にいる時は「お姉さま」あるいは「志摩子さま」、ふたりの時には「志摩子さん」と呼び分けている乃梨子だけれど、今、この 場に祥子さまや令さまがいないため、ついいつもの呼び方になってしまったのかもしれない。それでも祐巳さんや由乃さんがいるのだけれど。
「ごめんなさいね、由乃さん」
 妹の間違いは姉の責任。だから志摩子は代わりに詫びた。
「由乃さんが言っても説得力がないと思うけれど?」
 祐巳さんが苦笑しながら口を挟む。
「最近じゃよく、学校でも令さまのことを『令ちゃん』なんて呼んでるでしょう?」
 そうすると由乃さんはペロリと舌を出して言った。
「まあね。今のはちょっとした冗談のつもりだったのよ。祥子さまの真似だったのだけれど、似てなかったかしら?」
「あー、由乃さんったら、ひどい。祥子さまはそんなに冷たい話し方しないわよ」
 祐巳さんが口をとがらせて抗議するのを見て、由乃さんが堪らず笑い出す。すると志摩子と乃梨子も順に笑い出し、とうとう祐巳さんまでつられて笑い始めた。


 というわけで。
 秋晴れの爽やかな日曜日の朝。まさに天高く馬肥ゆる秋という天気だ。
 とは言っても日に日に肌寒くなってくる季節。冬はもうそこまで来ているようだ。
 志摩子は、アイボリーのレザージャケットに丈の長い紺のフレアスカートという服装でU駅に降り立った。待ち合わせの十時まではまだ十五分ほどある。
 でも、きっと。
 そう思いながら志摩子が改札口を出ると、思った通り。
 駅の出口には既に乃梨子が待っていた。
 明るい赤のカシミアセーターにブルーのジーンズ。そして頭にはセーターと同じ色のベレー帽をかぶっている。落ち着きなくそわそわとした様子からは、今か今かと志摩子を待っているのがよくわかる。
「乃梨子」
 近づきながら声をかけると、乃梨子は花が咲いたように笑い、大きく手を振ってきた。
「志摩子さん、早いのね」
「そう言う乃梨子だって早いわ」
 志摩子も控えめに手を振り返しながらそう答えた。
「そ、そうかな」
 少し恥ずかしそうに乃梨子が苦笑する。
「行きましょうか」
 志摩子が微笑みながら促すと、
「うん、行こう」
 乃梨子もそう言って、志摩子の腕に自分の腕を絡めてきた。
「の、乃梨子」
「いいからいいから」
 乃梨子はそう言いながら、志摩子を引っ張っていく。
「これではどちらがお姉さまかわからないわね」
「いいじゃない。今日は学校じゃないんだし」
 少し恥ずかしい気もするけれど、乃梨子の嬉しそうな顔を見ていると、それも悪くない気がしてくる。
 公園内に入ってすぐの所には文化会館がある。その向かいは西洋美術館。その間の道をゆっくり歩いていく。銀杏の木が黄色く色づき、早くも落ちた葉で道路が3割ほど染まっていた。リリアンのように銀杏並木が続いているわけではないけれど、秋を感じさせる光景には違いない。
「もうすっかり秋ね」
 ポツリと呟くと、乃梨子は悪戯っぽい笑みを浮かべて付け足した。
「志摩子さんの好きなギンナンの季節ね」
「ふふふ」
 思わず笑みが漏れてしまう。
 そう。
 もうすぐ、リリアンの講堂裏手にある銀杏林でギンナンの実が拾えるようになる。
「志摩子さんってば、嬉しそう」
 乃梨子はそう言って、
「今年は私も拾うの手伝うね」
 と続けた。
「そんなの、悪いわ」
「ううん、私が手伝いたいの。志摩子さんと一緒にギンナン拾うの、楽しそうだもの」
 本当に楽しみにしているのがよくわかる表情で言う乃梨子に、それ以上断ることもできず、志摩子は微笑んで言った。
「では、拾い方を教えなければいけないわね。結構コツがいるのよ」
「うん」


 国立博物館。
 乃梨子から今日の目的地は既に聞いていた。何でも、中宮時の菩薩半跏像が特別公開されているということだった。
 本来ならば奈良県まで行かなければ見ることのできない国宝の仏像。この機会を仏像愛好家の乃梨子が見逃すはずがなかった。そこへ志摩子も誘われたというわけ。
 カトリックのリリアン女学園に通っていながら、仏像を見るのが趣味という乃梨子は、さっきから一心に中宮寺の菩薩半跏像について語っている。目を輝か せ、頬を紅潮させて。簡単に見ることの叶わないものほど、その情報を夢中になって集めてしまうもの。きっと本やインターネットのに出ている解説文を、そら で話せるくらい繰り返し繰り返して呼んでいるのだろう。もしかしたら何も見なくてもスケッチくらいは描けるのかもしれない。
 とにかく。乃梨子の憧れの仏像との対面に同行させてもらえるというのも、最近の志摩子にとっての楽しみだった。そういう時の乃梨子は決まって、今のようにいい顔をしている。蔦子さんが今の乃梨子を見たら、きっと即座にカメラを構えるに違いない。
 門の前の券売所でチケットを購入する。一枚で平常展と特別展の菩薩半跏像の両方が見られるチケット。乃梨子ときたら、千円札を出して、チケットとおつりを受け取るのももどかしいくらいにそわそわしている。急がなくても仏像は逃げはしないというのに。
 でも、そういう気持ちはわかる。志摩子もイタリアの修学旅行で各地の聖堂や教会を訪れた時には同じように逸る気持ちを抑えたものだ。
「志摩子さん、早く」
「乃梨子、落ち着きなさい」
 志摩子が苦笑しながら諭すが、乃梨子は変わらず志摩子を急かすばかり。何を言っても効き目がないと諦めた志摩子は少し早足で乃梨子の後を追った。


 館内に入れば、さすがの乃梨子も気持ちを抑えて静かになった。それでもまっすぐに正面大階段の脇にある特別展入り口に向かい、志摩子の到着を待っている。
 志摩子が追いついて受付にチケットを切ってもらうと、乃梨子は再び志摩子の腕を取って中へと入っていった。
 展示室内は照明を落として薄暗くなっていた。中に入って突き当たりに解説パネルが掲示してあり、その向かいにお目当ての仏像が据えられている。控えめな照明があちこちから当てられ、仏像は静かにその姿を浮かび上がらせていた。
 中宮寺の菩薩半跏像は、思っていたよりも小さいと言えば小さいのかもしれないけれど、ほっそりとしたその姿には、このくらいの大きさが相応しいような気もする。
 右脚を上げ、その足首を左膝の上に乗せている。左手は右脚を引き寄せるように添えられ、右手の中指を軽く顎に当てている。左足の先が軽く上に反っていて、今まさに台に足をつけようという動きのようなものを感じさせる。
 ゆったりとした襞のある衣をスカートのように身につけていて、光背は竹に支えられて浮かび上がっている。
 ギリシア彫刻にも見られるような、アルカイック・スマイルでいったい何を思っているのだろうか。
「あんなに柔和な顔つきで、まるでマリア様のよう。いえ、男性なのだからイエズス様と言った方がいいのかしら。でもあの微笑みは聖女のようではなくて?」
 志摩子がそう言いながら乃梨子の方を振り返ると、乃梨子は言葉もなく静かに涙を流していた。
「乃梨子……」
「志摩子さん、私……」
「わかるわ」
 バチカン美術館で「最後の審判」の絵を見た時、自分でも何故だかわからないが涙が止まらなくなった。だから、志摩子は仏像を見て涙を流しこそしなかったけれども、乃梨子が涙を流さずにいられない気持ちは何となくわかる。
 こういう圧倒的な美に直面した時、人はきっと理屈よりも感情が先立つのだと思う。どうして感動しているのかなんて、考えても意味のないことだ。きっと乃梨子にとってはこの仏像がそういう存在なのだ。
「きっと、みんなの幸せを願っているのね。だからこんなにも柔らかく微笑んでいるんだわ。やっぱり、イエズス様よりマリア様に近い方なのよ」
 イエズス様はもちろん私たちを愛してくださるけれども、いつかはその私たちを裁く立場に立たねばならない方。でもマリア様は違う。裁くという責務を負う ことなく、無限の愛を人々の上に注いでくださる方なのだ。この御仏様もそういう方のような気がした。マリア様やお釈迦様や、そしてもっといろんな祈りで満 たされているから、私たちはそれぞれに救われるのだと思えた。
 それはどこか理屈っぽい考え方かもしれないけれど、それでも素直にそう思えた。


「乃梨子、庭園が開放されているそうよ。少し歩かない?」
 平常展を一回りして、涙もすっかり乾いた乃梨子に、志摩子はそう提案した。
「うん、行く行く」
 春と秋、桜と紅葉の季節にそれぞれ解放されるという庭園は、中央の池の周りに各地から移設された庵や茶室を配置している。そうして様々な植物に彩られているのである。今の時期の主役はなんと言っても紅葉だった。赤や黄色に彩られた木々、そして歩道。
「きれいね」
「静かだしね」
 志摩子には、乃梨子とふたりでゆっくりと流れていく時間が心地よかった。乃梨子もそう思っていてくれたら。腕を組んで歩きながら、志摩子はそんなことを考えていた。
「ねえ、志摩子さん」
 不意に乃梨子が口を開いた。
「何かしら?」
「あのさ、泣いてるところ見られたりして、少し恥ずかしかったけど。それでも、志摩子さんと一緒に見られてよかった」
 照れたように俯きながら乃梨子がそう言ったので、志摩子は「ふふっ」と微笑んで、答えた。
「私もよ」
「本当?」
 乃梨子が弾んだ声で聞き返してくる。
「ええ」
 志摩子はそう返事をした後、付け加えた。
「この庭は、桜の季節に来るとまた違って見えるでしょうね」
 その言葉に乃梨子がすぐに飛びついてくる。
「じゃあ、その時また来ようよ。あ、今度は祐巳さまたちも誘って、みんなで来るのもいいかもね」
「そうね」
 その頃には周囲にどんな変化が起こっているだろうか、そんなことが不思議と楽しみに感じられることに、志摩子は驚きながらも嬉しくなるのだった。



     あとがき……という名の言い訳


 ごきげんよう、林原悠です。
 連載ものの続きやリクエストも書かんと何やっとんじゃあ、とお怒りの皆様、私もそう思います。何やってんでしょうね、私。
 何でこんなものを書いたかと言いますと、私が実際に国立博物館で特別展示中の中宮寺菩薩半跏像を見に行ったからです。最初は白薔薇姉妹を登場させて、仏像の感想を簡単に書くつもりだったんです、「日々の煩悩」あたりに。ところが、だんだん私の頭の中で妄想が暴走してくれました、特に乃梨子が。
 お読みくださった方は、季節が違うことにお気づきだと思います。何故春にしなかったかというと、単純に設定が難しくなるからです。だって、春になったら祥子さまたちは卒業して祐巳さんたちが(たぶん)薔薇さまになってるわけですよ。由乃さんはともかく、祐巳さんにはさすがに妹がいると思われ、それが誰なのか、9割方確定だとは思いますが、まだ決定ではないし。かと言って、乃梨子入学直後の春では、ふたりで仏像を見に行くどころではなかったはずですし。できるだけ原作の設定のままで作りたかったので季節をずらしたというわけです。
 実はこれ、林原初の「マリみて」作品です。当初の予定では初「マリみて」は新聞部姉妹のはずだったのに……。終わりの方、何か中途半端だし。
 まあ、新聞部姉妹、特に七三の方にもいずれ登場してもらうとして。
 作品中に登場した中宮寺菩薩半跏像、4月17日(日)まで上野の国立博物館で特別展示中です。歴史の教科書なんかで写真は何度も見たことあったんですけ ど、実際に見るとなかなか見事なもんです。乃梨子が仏像に惹かれるのも何となくわかる気がしました。近隣にお住まいで興味のある方は是非、足を運んでみてください。庭園の開放期間も17日までの予定だそうで、次は紅葉の季節まで待つことになります。
 さて、お待たせしている「狐と狸の化かし合い」(違)とリクエスト諸々、少しずつではありますが書き進めています。もうしばらくお待ちください。

2005年4月12日  林原 悠

※ 追記(2010/04/19)
 今まで放置していましたが、本作品のタイトルについて。
 ご承知の通り、「マリア様がみてる」のスピンオフ作品として、本作品と同タイトルのシリーズ名の花寺学院編を原作者・今野緒雪先生ご自身の手で執筆されております。
 それに伴って、本作品を改題することも考えましたが、面倒なので新しいタイトルを思いつかなかったのでそのままにしています。内容的にも混同する方はいらっしゃらないと確信しておりますが、本作品は公式の「お釈迦様がみてる」とは関係がありませんので、何卒ご了承ください。

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