エピローグ


 元日の空気には特別な清涼感があると思う。正月などというものは人が便宜的に作ったもので、同じ季節であればその前後の朝と変わらないはずなのに、やはり何かが違って感じるのだ。
 航太郎はそんな特別な朝の空気をいっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 見上げれば、いつもは人通りの少ない坂道を無数の人たちが賑やかに登っていく。やがて、すっかり見慣れた石段と、その袂に佇む藤色の振袖が見えた。
「航太郎さん」
 振袖の少女、藤崎和水がふわりと微笑んで手を振った。航太郎も手を振り返し、その側に駆け寄っていく。
「和水さん、あけましておめでとう」
「ええ、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」
 航太郎は丁寧に頭を下げる和水をまじまじと見つめた。いつも下ろすかポニーテールにしている髪は、きれいに頭の上に結い上げられている。藤色の着物には桜や藤の花文が描かれていて、上前の桜には金糸の刺繍が施されているものの、全体の印象は柔らかく、和水のおっとりとした雰囲気によく合っていた。
「航太郎さん、いかがなさいましたか?」
 和水が首を傾げて尋ねかけた。
「あ、いや、やっぱり和水さんは着物が似合うなあと思ってさ」
 航太郎がつい思ったままのことを口にすると、和水の顔がみるみる赤くなっていった。
「そ、そのようなこと……ありがとうございます」
 和水の照れた顔を見て今更のように自分の発言が恥ずかしくなり、二人揃って赤い顔で黙り込んだ。
 昨年、と言ってもほんの数か月前だが、この街に引っ越してきて和水と出会って、いろいろなことがあった。幽霊に取り憑かれて和水を殺そうとさえした。
 もっとも、実際に何があったのか航太郎はほとんど覚えていないのだ。気がつけば砂浜に倒れていて、和水が航太郎に寄り添うように折り重なって眠っていた。規則正しい寝息が顔にかかるほど近い場所にあって、今でも思い出す度にドキドキしてしまう。
「お正月からお嬢様を誑かすのはおやめいただけますか」
「うわあっ!」
 突然聞こえてきた声に航太郎は心臓が止まるかと思った。願わくば今思い出していたことを悟られていませんように。
「室見さん、いつからいたの?」
 室見涼子はむっと顔をしかめた。
「ずいぶんと失礼なことを言うのね。私は最初からお嬢様の後ろに控えておりました。気づきもしないなんて。……何よ、人をじろじろ見て」
「えっと、室見さんの着物は見たことなかったから気づかなくてさ。ごめん」
 航太郎が言った通り、涼子は鮮やかな露草色の振袖を着ていた。
「私は学校以外ではいつも着物です。むろん、このような分不相応な着物はめったに着ないけれど」
 和水も涼子も普段から家では着物だとは聞いていたが、今まで制服姿の涼子しか見たことがなかった航太郎にとっては、振袖を着た涼子など想像できなかった。
「私がお選びしたのですよ。涼子さんには明るい色がお似合いになると思いませんか?」
 和水の言葉通り、涼子の振袖は鮮やかな露草色のものだった。
「確かに似合ってる。さすが和水さんだね。」
 航太郎がそう感想を述べると、涼子はますます表情を険しくした。
「航太郎君、そういう時はちゃんと本人を褒めてあげないと、涼子ちゃんが機嫌を損ねるのも無理ないよ」
 後ろからダメ出しを受けて振り返ると、咲季が笑顔でこちらを見ていた。その後ろに桂子と橋本もいる。
「どうせ天神には藤崎しか見えてなかったんだろ」
 橋本がそう言って茶化す。図星を突かれた航太郎がおたおたしている間に、咲季たちは和水や涼子と新年の挨拶を交わしていく。
「航太郎さん、参りましょう」
 呼びかけられて航太郎は我に返った。見れば、一、二段上から和水が右手を差し出していた。咲季たちは既に石段を登っている。航太郎は少し照れながら和水の右手を取った。
「お正月までに治ってよかったよね」
 航太郎が言うと、和水は何のことかと少し考えた後で微笑んだ。
「ええ、航太郎さんも」
 海辺での一件の際、和水は右肩を脱臼していたらしくしばらく三角巾で腕を吊っていたし、航太郎は両手とも骨にひびが入っていたり、打撲があったりで包帯を巻いていたから、咲季たちには大ゲンカでもしたのかと問い詰められてごまかすのに一苦労だった。
 実際、和水の肩を殴って負傷させたのが航太郎なのは間違っていないから、きっぱり否定することもできなかったのだ。
「ご実家にお帰りにならなくてよろしかったのですか?」
 並んで石段を登りながら和水が尋ねた。
「みんなで初詣に行きたかったしね。でも、父さんたちは先に行ってるし、僕も明日には向かう予定だよ」
 年末に帰省する両親に無理を言って、元旦までこっちに残らせてもらったのは、「みんなで」というよりは和水と初詣に出かけたかったからだが、そんなことをさらっと言える航太郎ではない。口にしたところで、和水にとっては迷惑かもしれなかったし。
「左様でございますか。では、旅人さんによろしくお伝えください」
「ああ、うん」
 旅人は梓紗の仇を討つために家出に近い形で飛び出してきたらしく、この街にいることは家族にも連絡していなかったらしい。こっちの高校に通っているというのも嘘で、幽霊退治の仕事をしながら仇を探していたというわけだ。
 しかし、航太郎を助けるために一緒に奮闘する和水たちの姿を見て、自分の誤解に気づいたようで、数年ぶりに故郷へと戻っていった。
 石段を登りきって鳥居をくぐると、いつもは静かな境内が参拝客で賑わっていた。
「やっと来たね。みんな先に並んでるよ」
 声をかけてきたのは志麻だった。境内に散見されるバイトとおぼしき巫女たちと違って寸分の隙もなく巫女装束を着こなしているが、顔つきにはどことなく疲れているような色があった。
「忙しそうですね」
「そりゃお正月だもん。あ、先に言っとくけど、あたしはサボってるわけじゃないからね。夜中から働きづめでやっと休憩もらえたとこなんだから。本当なら和水や涼子ちゃんにも手伝ってもらうはずだったのに」
 志麻はそこで何故か航太郎をじろりと睨んだ。
「も、申し訳ございません。明日からは手伝いますので」
 更にどういうわけか、和水は慌てている様子だった。それを見て志麻がフフッと笑った。
「航太郎がいるんじゃ仕方ないか。ま、明日からよろしく」
 そう言って志麻は自宅の方へとふらふら歩いていった。
 志麻には気の毒だと思ったけれど、和水も航太郎と同じ気持ちだったことがわかって素直に嬉しかった。
 今のこの時間をみんなで過ごしたい、その中で航太郎の占める比重がどれくらいあるのかはわからないけれど。
「和水さん、行こう」
 和水がこくりと頷き、二人並んで歩き出す。
「あ、二人とも、こっちこっち!」
 鬼の血とか鬼斬りの家系とか、考えることはいろいろあるけれど。
「志麻先輩から聞いたわよ。和水ちゃんと涼子ちゃん、明日からこの神社手伝うんだって? あたし、明日も初詣に来ようかな」
 焦る必要なんてどこにもない。
「咲季ちゃん、それは初詣とは言わないと思うわ」
 まだまだこれから時間はたっぷりある。
「天神は明日から里帰りだろ。残念だったな。藤崎の巫女姿拝めなくて」
 こうして一緒に笑っていられれば。
「ちょっと! 汚らわしい。そんな目でお嬢様を見ないでくださる?」
 今はそれで十分。
「涼子さんったら。でも航太郎さんには見ていただいても構わない気もいたしますわ」
 だから、神様にお願いするとしたら。
「な、和水さん、何言ってんの!」
 こんな平穏な日々が続きますように。

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