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「……っ!」
ギリギリで回避したはずの刀身は左腕をわずかに掠めていた。真剣だったら間違いなく羽織の袖を切り裂かれていただろう。
十分な間合いを取って呼吸を整えながらも、和水の中に焦りが蓄積していた。
旅人の攻撃に対する反応が鈍ってきている。どうやら体力の差が表れてきたようだ。
これまでに何度刃を合わせたことか。いったいどれくらいの時間こうして戦っているのかわからなくなっていた。もしかすると感じているほどの長時間ではないのかもしれない。
最初のうちは旅人の攻撃をある程度余裕を持って回避することができていた。素早さでは和水のほうに分があるようだった。
力比べになれば旅人には到底敵うまい。もちろん和水とて見た目ほど非力ではない。並みの男が相手ならば、たとえ素手でも後れを取らないだけの自信はある。
しかし、今戦っている相手を並みの男の範疇に入れるのにはかなりの無理があった。背の高い航太郎を更に一回り大きくしたような体格に、おそらくは実践的に鍛え上げられた剣術。
「その細い体でここまで腕が立つとはな。予想外とも言えるし、予想通りでもある」
相変わらず表情を崩さずに旅人が言った。悔しいくらいに息一つ乱れていない。こちらは少しでも気を抜けば肩で息をしてしまいそうな状態だというのに。長期戦の不利が如実に表れていた。
「その根性だけは認めてやるよ」
「ありがとうございます」
そう言って微笑んで見せようと思ったが、出てきたのは引きつった笑いだけだった。
「申し上げたはずです。私にはまだ為すべきことがあると。私は誓ったのです、今度こそは必ずお守りすると。この命に代えても守らねばならない人がいるのです」
「航太郎のことを言っているのなら冗談ではないな。あいつは元々俺の管轄、俺たちの一族が守るべき村の人間だ」
それに、と旅人は言葉をつないだ。
「航太郎だってわかるはずだ。梓紗を殺したあんたを信用することなどできないと」
和水は動揺を隠すことができなかった。
「航太郎さんはそのことを知っているのですか?」
「ずいぶんとうまいことごまかしていたようだな。おかげで航太郎は少し混乱している。だが、それだけのことだ。昨日今日に知り合ったあんたと生まれた時からの付き合いの俺じゃ、どっちを信じるかなど考えるまでもない」
和水は唇をきゅっと噛んだ。
旅人の言葉を否定したかったが、できなかった。和水自身、そういう不安を抱いていたから。
梓紗を殺したのは和水、そう、どんなに言い繕ってもその事実を変えることはできない。その事実を知ってしまったら、航太郎は和水のことを恨み、蔑み、憎むのではないか。そして自分は永遠に航太郎を失ってしまうのではないか。
航太郎と梓紗が顔馴染みかもしれないと最初に思った時には、むしろそうなることを望んでいた。梓紗を知るものによって断罪されることがせめてもの償いになるのではないかと思ったのだ。場合によっては航太郎に殺されてもいいとさえ思ったのだ。
それが恐怖と言える感情にまで膨らんだのはいつからだったろうか。
「航太郎は梓紗に好意を抱いていた。だからだろうな。梓紗の死を俺が告げた途端に真っ青になって倒れてしまった。そして目が覚めた時には梓紗のことをすっかり忘れてしまっていたんだ」
淡々と告げる旅人の言葉が、戦いの中のどんな一撃よりも強く和水を打ち据えた。
「俺はそれもいいと思った。あいつが梓紗を忘れて、それまでのように明るく暮らせるのなら、それでもいいと思った。仇討ちなど考えて生きるのは俺だけで十分だ。だが、航太郎はこの街へやって来て、あんたと出会ってしまった。もっとも、そのおかげで俺は梓紗の仇を見つけることができたわけだが」
そこで初めて、旅人は冷笑を浮かべて見せた。
「見つけてしまった以上、航太郎までも犠牲にならないうちにあんたと決着をつけておかなくちゃならない」
決意を込めた瞳で和水を見据え、木刀を構え直す旅人を前にして、和水は何一つ言葉を返すことができなかった。
旅人が話をしている間に呼吸を整えることはできた。もしかしたら旅人はそれすら見越していたのかもしれない。だが、その話のせいで和水の集中は乱れていた。
旅人が打ちかかってくる。矢継ぎ早に繰り出される打撃を薙刀の柄で辛うじて受け止めながらもじりじりと押されていった。
不意に、航太郎もここで和水が討たれることを望むのだろうかという考えがよぎった時、和水の薙刀は旅人の木刀に弾き飛ばされ、小さな音を立てて砂浜に落ちた。
「覚悟!」
上段に木刀を振りかぶる旅人を和水は呆然と見つめていた。
「和水さんっ!」
何かがガシャンと倒れるような音がしたかと思うと、背後の彼方から叫び声が聞こえた。木刀を振り下ろさんと動き始めていた旅人の手が止まり、同時に和水の目が驚きに丸くなる。
「航太郎っ! どうしてここに!?」
旅人が声を上げるが、和水は背後を振り向くことができなかった。背を向けたところで旅人に木刀を振り下ろされるとか、そういうことを心配したからではない。もしも振り返った先の航太郎の視線が和水を責めていたら、そう考えるのはこの場で殺されるよりも恐ろしいことだった。
「アニキこそっ! 何してんだよ?」
航太郎の声がさっきよりも近かった。浜辺の砂を踏みしめる音が聞こえてくる。
「見ればわかるだろう? 俺は梓紗の仇を討つのだ!」
「やめろよ、そんなこと!」
「何故止める!? 俺はそのためにこの街に来たんだぞ!」
航太郎の足音が止まった。まるで、それ以上近づけば旅人が和水に最後に一撃を加えるかのように。
「ありきたりだけど、そんなことしたって梓紗姉ちゃんは喜ばないよ!」
「そうだろうな。梓紗はそういう奴だった。それでも俺は……」
「アニキは意地になってるだけなんだ! お願いだからやめてくれよ。その人は、和水さんは僕の……」
「航太郎!?」
航太郎の言葉が途中で途切れ、旅人の声に焦りが滲んだ。和水が顔を上げると、旅人の表情が驚愕に歪んでいた。慌てて振り返ると、十歩ほど先の砂浜で航太郎が両手と両膝をついていた。
「……っく!」
苦しそうに嗚咽を漏らす航太郎の姿が、和水の記憶の中にある姿をフラッシュバックさせた。あの夜の梓紗もこうだった。
まさか。
「……があああっ!」
航太郎が突然体を起こして雄叫びを上げた。
和水は最悪の想像が現実のものとなったことを知った。
「なんてこった……」
旅人の独り言が虚ろに響いた。目の前の光景が信じられないという口調だった。
和水も同じ気持ちだった。航太郎の豹変が、ではない。航太郎がこの場所に現れたことが、だ。
和水はここに来ることを誰にも言わなかった、志麻にも涼子にも。にもかかわらず航太郎がここに現れたのはいったいどういうわけなのか。
何をしに来たのか、それはさっきまでの航太郎の言動から明らかだった。和水と旅人の戦いを止めに来た。どういう経緯でそのことを知ったのかわからない。もしかしたら勘の鋭い涼子が和水の外出を不審に思った結果なのかもしれない。だとすれば……。
和水は砂浜に膝から崩れ落ち、へなへなと座り込んだ。
自分のせいだ。嘘をついてでも涼子の不審を買わないようにしていれば、航太郎にまで話が及ぶことはなかっただろう。旅人の呼び出しが一筋縄ではいかないことを感じ取って気が動転していたために、そこまで気が回らなかったのだ。
もちろん、あの場面で航太郎が口を挟まなければ和水は旅人の木刀に頭を叩き割られていただろう。しかし、航太郎があんなことになるくらいだったら、そのほうが遥かによかった。
「俺があんなことを話さなければ、航太郎が出てくることもなかったはずだ……」
旅人が憮然と呟いた。「あんなこと」とはおそらく和水たちと梓紗のことだろう。
違う、和水はそう叫びたい思いに駆られたが、奥までカラカラに渇いた喉からは声など出てこなかった。
突然の事態に二人が二人ともまったく動けなかった。一人は座り込み、一人は立ち尽くしたまま同じ方向を凝視しているだけだった。
二人の視線の先にいる航太郎は、姿こそ変わらないままだったが、身にまとっている空気はまったくの別人だった。瞳は凶暴な輝きを帯び、犬か狼のような低い唸りを上げている。もしも、西洋の人間が航太郎の姿を見たなら、こう思ったはずだ。狼男だ、と。実際、日本の鬼と西洋の狼男は、こうした姿が別々のイメージで伝えられたものなのだ。
だが、今、この場にはそんな冷静な観察のできる者はいなかった。
動かない二人に痺れを切らしたのか、航太郎の姿をした鬼は叫び声と共に、砂浜に座り込んだ和水めがけて飛びかかった。
和水はその姿を視界に捉えてはいたが、指一本上げることができずに見つめるだけだった。航太郎は右腕を振り上げて和水に襲いかかった。
その刹那、風を切る音と共に和水の目の前の砂浜に何かが突き刺さった。と同時に、見えない壁が航太郎の振り下ろした拳を阻んだ。バチバチっと青白い火花が走り、航太郎はうめき声を上げて後ろへ飛び退く。
「和水、大丈夫!?」
和水がゆっくりと顔を上げると、見慣れた巫女装束が砂浜を駆けてくるところだった。
「志麻……さん?」
見上げる和水の唇から漏れた声は今にも掠れてしまいそうだった。
「何とか間に合った」
志麻は軽く息が上がらせて和水の傍らにたどり着いた。
「あたしは和水と違って体力ないんだから、あんまり無茶させないでよね」
志麻はそう言って、座り込んだままの和水に右手を差し出した。
「ごめんね。一応止めたんだけど、航太郎ってば一方的に電話を切って飛び出しちゃったみたいでさ」
志麻は和水の手を引いて立ち上がらせると、袴についた砂をぱさぱさと払ってみせた。
「志麻さん……私のせいで航太郎さんが……」
和水が今にも泣き出しそうな顔で言いかけるのを押しとどめた。
「泣くのは後。今は航太郎を助けるのが先でしょ」
「助ける……?」
「もちろん。航太郎の精神が完全に食われてしまうまでにはもう少し時間がある。それまでに取り憑いた幽鬼を追い出すの。あたしだって昔のままじゃないからね。こういう事態に備えて修業してたんだよ」
虚ろだった和水の目に光が戻っていく。志麻はそれを確認して砂浜の一点を指さした。
「わかったらさっさと薙刀取っておいで」
志麻に言われて和水が走っていった。
「さてと」
志麻は懐からお札の束を取り出しながら旅人に声をかけた。
「言いたいことは後で好きなだけ言わせてあげるから、今は黙って手伝ってもらうよ。あんただって航太郎を助けたいでしょ?」
「あ、ああ」
旅人も我に返って、志麻の言葉に頷く。
和水が戻ってきて志麻の傍らに立ち、薙刀を構えて航太郎を見つめた。
「航太郎さんはこの命に代えてもお助けいたします」
決意を込めた和水の言葉に、志麻はゆっくり首を振って諭すように言った。
「和水、そういう考えはダメだよ。航太郎が助かっても、代わりに和水が無事じゃなければ三年前のあたしたちと同じ気持ちを航太郎に味わわせるだけだからね」
和水は、最初のうちは志麻に窘められて戸惑いの色を浮かべていたが、最後まで聞いてこくりと頷いた。
「あんたも文句はないね?」
右隣に立った旅人に志麻が声をかけた。旅人は小さく頭(かぶり)を振って答える。
「安心しろ。後ろから不意打ちなど、そんな卑怯な真似はしない」
「そうじゃなくて。あんたにも無事でいてもらわなきゃ困るってことだよ」
旅人は軽く驚いた様子で志麻の顔を見つめたが、一瞬だけかすかに口の端を吊り上げた。
「そうだな。まだこっちの用事も終わっていない」
「そのことについては後でゆっくりとね。それじゃ、和水と旅人の二人には航太郎の注意を引きつけて足止めしといてもらうよ」
いきなり名前で呼ばれ、旅人は再び志麻の顔を一瞥したが、すぐに視線を航太郎に戻して頷いた。
「承知した」
「かしこまりました」
二人の返事が重なり、それぞれ木刀と薙刀を手に左右から航太郎に近づいていく。
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に……」
志麻がその場で祓詞(はらえことば)の奏上を始める。
航太郎はそれを訝しげに見つめたが、次の瞬間には旅人が向かって左側から迫ったため、志麻から視線を外して旅人の攻撃をひらりとかわし、すぐさま反撃に出た。それを旅人は木刀で受け止め、押し返す。
わずかに航太郎のバランスが崩れたところを和水が薙刀を横に一閃させた。しかし、航太郎は木の刃を左手で掴み取ると、力任せに投げ飛ばした。それでも薙刀を離さなかった和水の軽い体は木の葉のように宙を舞い、落下した。
受け身を取ったことと下が砂浜だったことが幸いし、和水は怪我もなく起き上がることができた。
さっと目を向けると、航太郎が旅人に猛然と殴りかかっているところだった。それを旅人はかわしたり木刀で受け流したりしているが、見るからに防戦一方で反撃の機会を得られないでいるようだ。
「……白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す」
志麻が祓詞の奏上を終えて手にした数枚のお札を空中に放った。お札は何かに操られるかのように八方に分かれて舞い、砂浜に突き刺さる。
「……!」
旅人に矢継ぎ早に攻撃を繰り出していた航太郎が不意に立ち止まった。
「完成したのか?」
旅人が航太郎から間合いを取りつつ尋ねた。
「いや、まだ結界を張っただけ。でも、これで航太郎に逃げられる心配はなくなった。ここからが本番だよ。もう少し時間を稼いでちょうだい」
志麻は袂から一対の鈴を取り出しながら答えると、鈴をしゃらりと振り、歌うような抑揚で祝詞を紡ぎ始めた。
「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と 祓給う」
航太郎は、自分をこの空間に閉じこめた主が志麻と気づいた様子で、更に続いている祝詞を妨げようと動き出した。
「っと、そうはさせない!」
旅人が間に立ちはだかる。すかさず反対側を和水が塞いだ。
「……ぐるるる」
「天清浄とは 天の七曜九曜 二十八宿を清め」
二人による包囲を抜け出そうと隙を窺っていた航太郎は、和水の側から崩そうと襲いかかった。迫る航太郎の拳を薙刀の刃や柄で受け止め、時には紙一重で回避していく。
旅人ほどではないが、航太郎と和水も結構な体格差がある。元々の運動神経の良さも理解している。それでもこれほどまでに力があるとは思っていなかった。旅人と戦っていた時に彼の斬撃を何度も受け止めたが、航太郎の拳にはそれ以上の重みがあった。
「地清浄とは 地の神三十六神を 清め」
体ごと吹き飛ばされそうな衝撃を何度も必死で押しとどめているうちに和水の目に映った航太郎の拳は、所々の皮膚が裂けて血が滲んでいた。
幽鬼に取り憑かれた者は、今の航太郎のように人並み外れた怪力を発揮する。幽鬼は傷つくことなどお構いなしに体を限界まで酷使する。人間が体を守るために備えているリミッターが外れた状態になってしまうのだ。
まさしく手加減なしの力で木刀などを殴りつけていては皮膚も裂ける。
和水がそんな航太郎の状態を目にしてしまったのは不運としか言いようがなかった。直後に迫った攻撃を、和水は薙刀で受けるのを躊躇ってしまったのだ。結果、受け損なった拳は和水の右肩を直撃した。
「ああっ!」
その衝撃に和水の体が後方の砂浜に叩きつけられた。更にそこに航太郎の追撃が迫る。
「させるかっ!」
そこへ旅人が横合いから木刀を横薙ぎに打ちかかり、そのまま体ごとぶつかっていった。航太郎と旅人は縺れるように砂浜を転がっていく。
「……っ」
息を飲む音が聞こえ、志麻の祝詞が途切れた。
「続けろっ!」
航太郎よりも先に起き上がった旅人が一喝し、航太郎と和水の間に立ちはだかった。
「……内外清浄とは 家内三寳大荒神を 清め」
一拍の後に志麻が奏上を再開した。
「バカか、目の前で戦っている相手の傷を見て防御を躊躇うなんて」
背後で呻きながら身を起こした和水に容赦のない言葉をぶつけた。
「航太郎さんは……敵ではございません」
「それでも、手を抜けばお前が殺されることに変わりはないんだぞ」
「……」
正論だった。和水は言い返す言葉もなく黙り込む。その沈黙を承知と受け取ったのか、旅人は航太郎を見据えながら言った。
「死ぬよりはマシだからな。多少の怪我は我慢してもらうさ。場合によっては、腕や足の一本くらいは折ってでも……」
「六根清浄とは 其身其體の穢れを」
少しずつ清浄な空気が結界内に満ちていくのが旅人にもわかった。祝詞は佳境に入っている。もう少し持ち堪えればいい。
「動けるか?」
航太郎から目を逸らさずに尋ねた。
「は、はい……」
しかし、和水は小さく呻いて、持ち上げようとした薙刀を取り落とした。打撃を受けた右肩に焼けるような激痛が走った。右手に力が入らない。
旅人は舌打ちをした。こうなっては和水をかばいながら自分一人で航太郎を相手にするしかない。
「祓給 清め給ふ事の由を」
朗々と続く祝詞がいつ終わるかと焦りさえ覚えながらも、旅人は航太郎の意識がそちらに向かないように木刀の切っ先を揺らして挑発を試みた。航太郎はこれに反応し、旅人への警戒を強める。
「でやあっ!」
航太郎の注意が自分に向かったのを確認して、旅人は正面から航太郎に突っ込んでいく。袈裟懸けに振り下ろした木刀を、航太郎は両手でがっしりと受け止めた。白刃取りというよりは強引に掴み取った感じに近い。
間髪入れずに右足の蹴りが旅人を襲った。航太郎に捕まれたままの木刀から手を離し、すんでのところで蹴りを回避した。
「八百万の神等 諸共に」
航太郎は手元に残った木刀を無造作に投げ捨てた。
武器を失った旅人は焦りを隠すのに必死だった。今、対峙しているのが普段通りの航太郎ならば、素手で戦っても十中八九勝てる自信がある。しかし、幽鬼に憑かれて凶暴化している航太郎の人間離れした身体能力を前に、今の状態はやばい。
航太郎は咆哮と共に旅人に向かって跳躍した。風を切りながら振り下ろされる拳を紙一重でかわし、カウンターの一撃を腹部に食らわせる。
「ぐっ……」
航太郎の顔が苦悶に歪む。
「小男鹿の 八の御耳を 振立て聞し食と申す!」
志麻の振る鈴が一際高らかに響き、結界内に一気に破邪の波動が満ちていく。清涼な空気に包まれ、旅人の心に安らぎが広がっていく。逆に航太郎は表情を歪ませ、絶叫を上げてのたうち始めた。
「航太郎……」
今、航太郎の内部では取り憑いた幽鬼が追い出されまいと最後の抵抗をしているところなのだろう。この上は航太郎自身の精神力を信じるしかない。
「あと少しだ。航太郎、頑張れ」
そっと声援をかけながら、旅人はゆっくりと航太郎に近づいていった。
触れられるくらいまで距離が縮んだ時、不意に身を翻した航太郎の拳が旅人の胸を打ち据えていた。それは、狙い澄ました一撃ではなく偶然の産物だったが、それでも旅人をノックアウトするには十分だった。
「……旅人!」
一定のリズムで鈴を鳴らしていた志麻が思わず叫び声を上げた。その声に航太郎がギロリと振り返る。航太郎はユラユラとよろめきながら志麻に近づいていく。
お祓いが完全ではなかったのか。志麻の瞳が悔しさに揺れた。
それでも逃げるわけにはいかない。今この場を離れれば儀式は途切れる。まったく効いていないわけではないのだ。あと少し、航太郎の中に憑いた幽鬼に揺さぶりをかけることができれば。志麻は最後の望みを捨てずに鈴を鳴らし続けた。
志麻の必死の思いも空しく、航太郎が目の前までやって来た。ゆっくりと拳を振り上げる。
気丈な志麻も足が竦んで動けなくなる。己の力不足を航太郎や和水に詫びながら、志麻はギュッと目をつぶった。
「……」
航太郎の一撃はいつまで経っても落ちてこない。
「……?」
不審に思って恐る恐る目を開けると、航太郎の正面に、藤色の羽織が重なるように張りついていた。いつの間にか割り込んだ和水が航太郎を抱きしめているのだ。
狂気に彩られていた航太郎の瞳に、困惑の色が浮かんだ。
「……う……ぐ……」
振りほどくのは造作もないことだろう。身を守ることすら忘れた無防備な少女に渾身の一撃を与えることだって容易い。それでも航太郎は振り上げた腕を空中に静止させたまま固まったように動かなかった。
「航太郎さん、航太郎さん」
切々と呼びかける和水の声にぴくりと反応し、やがて航太郎の目に少しずつ理性の光が戻ってくる。
「……なご……み……さん?」
航太郎の唇がかすかに震え、途切れながらも確かにその名前を呼んだ。
はっと息を飲んで見上げる和水に、航太郎はぎこちない表情で、それでも確かに微笑みかけた。和水の瞳から涙がとめどなく溢れ出す。
航太郎の体から白い霧のようなものが立ち上り、虚空へと四散していった。
「あれ……?」
途端に航太郎の全身から力が抜け、崩れ落ちるように砂浜に倒れ込む。和水もそれに引きずられるように倒れた。
「和水! 航太郎!」
志麻が駆け寄って声をかけるが、航太郎だけでなく和水も一気に緊張の糸が切れたのだろう、二人は折り重なったまま気を失っていた。
いや、この表情はむしろ眠っていると言ったほうがいいのかもしれない。志麻はそんなことを考えながら安堵の溜息をついた。
「まったく、幸せそうな顔しちゃって」
志麻は苦笑しながら屈み込むと、和水の頬を濡らす涙を人差し指でそっと拭った。
「二人とも無事か」
旅人が、砂浜に落ちた木刀を回収しつつ歩み寄ってきた。
「お疲れさん。無事……って言っていいのかどうかは知らないけど、今は眠ってるよ」
志麻はゆっくりと立ち上がりながら旅人の問いに答える。
「そうか」
無愛想に答える旅人だったが、表情は穏やかに綻んでいた。
「やっと、助けることができた」
不意に志麻がぽつりと呟いた。
「あの頃はあたしも和水も力が足りなかったから。……そうだ、後で話す約束だったっけ」
と、思い出したように手を打つ。
「あたしも後で知ったことなんだけど、梓紗の母親は父親と同郷でね、鬼の家の出だったんだよ」
旅人は顔を上げて志麻をまじまじと見つめた。初耳、という表情だった。
「旅人も知っている通り宮前家は守人の家系、鬼族の娘と結ばれることは許されない。だから梓紗の両親は宮前家ゆかりの土地を離れて駆け落ち同然にこの街に来たんだよ。梓紗が休みの度に君たちの村を訪れたのも、両親の故郷には戻れなかったからだろうね」
「……」
「あたしたちは未熟だったから、梓紗に鬼の血が流れていることにはまったく気がつかなかった。梓紗自身も知らなかったのかもしれない。もし知っていたとしたら、きっと辛かったんじゃないかな。だって、梓紗は本当に君のことが好きだったんだと思うから」
そう言って志麻は夜空を見上げた。それにつられて旅人も視線をはるか上へと滑らせる。忌まわしい思い出に彩られていた月が、今は労いの柔らかい光を投げかけてくれている気がした。
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