第8章  交差する想い(後編)


 翌日からも航太郎はそれまでと変わらず和水と接することにした。旅人が最後に残した言葉を無視する形になるが、それでも和水を疑うことができなかったのだ。
 十年来の付き合いの旅人よりも、知り合って一か月程度しか経っていない和水の言葉を重く見ていることが自分でも不思議だった。
 おそらく、旅人も嘘を言っているわけではない。
 和水が梓紗を手にかけなければならなかったのが事実だとしても、そこにはやむにやまれぬ事情があるはずだ。旅人も言っていたではないか。どうしても助けることができないなら斬るのも義務だと。
 もちろん、梓紗は鬼ではないというのが本当なら、その「やむにやまれぬ事情」というのも消えてなくなってしまう。
「……さん、航太郎さん」
 右からそんな声が聞こえてくるのと同時に左肩をとんとんと叩かれた。顔を上げると、咲季が航太郎の左肩に手を置いたままこちらを見ていた。
「どうしたのよ、航太郎君。さっきから和水ちゃんが呼びかけてるのに」
 戸惑いのままに頭を右に巡らせると、和水が心配そうに航太郎を見ていた。
「あ、ご、ごめん。ちょっと考え事をしていて……」
 その考え事というのが和水のことなのが少しだけ恨めしくもあるが、和水の表情を見ればそんな気もどこかへ行ってしまった。
 見た目で判断するのが間違いなのはわかっている。儚げに見えるこの少女が実は武道の達人で、男子顔負けの運動神経の持ち主なのもよく理解している。素手同士ならともかく、ルール無用の戦いになればおそらく航太郎に勝ち目はないとも思う。
 それでも、やっぱりこの女の子が恨みや憎しみで人を殺すような人間にはどうしても見えないのだ。
 信じているというよりは、信じたい、そんな思いだった。
「昼休みになったことも気づかないくらい何を考えてたのよ?」
 咲季の溜息混じりの指摘を受けて机の上を眺めると、さっきの授業の教科書とノートが広がったままだった。教室は既に喧噪で溢れていて、そこかしこで弁当箱を広げている姿が見られる。
「その様子じゃ聞いてなかったみたいね」
 桂子が呆れ気味に言った。手にしたピンクの可愛らしい包みは弁当だろう。
「何のこと?」
 航太郎も慌てて机の上の教材を片付けて弁当箱を取り出しながら尋ねた。
「和水ちゃんがお弁当作ってきたんだって。航太郎君にも試食して欲しいんだってよ」
 やけに弾んだ声で咲季が言った。にやにやとからかうような笑みが浮かんでいる。
「あまり自身はないのですが、ぜひ皆様にお味を見ていただきたいと思いまして」
 不意に射るような視線を受け、和水に気取られないように教室の戸口をそっと見やると、ドアの縁から室見涼子が三割ほど顔を覗かせていた。涼子は人差し指をくいくいっと動かし、すぐにドアの影に引っ込んでしまった。
 何とも横柄な呼びつけ方がいかにも涼子らしく、航太郎は心の中だけで溜息をついて立ち上がった。
「ごめん、ちょっとだけ待ってて」
 そう断って涼子が隠れたドアに向かう。
 開いたままのドアから廊下に出ると、すぐ右手の柱の前に室見涼子が立っていた。不機嫌そうというよりはどこか悲愴な表情だった。
「何か用? まさか、和水さんの料理を食べさせないってつもりじゃないよね?」
 涼子相手だとついぶっきらぼうな口調になってしまうのは相変わらずだった。仲違いしないで欲しいという和水の頼みに添っている自信はないが、ケンカ友達という志麻の要望には応えられているのかもしれない。
「そのようなことを言うはずがないでしょう。お嬢様が一生懸命作ったお弁当ですもの。死んでも食べていただきます」
 お嬢様は禁止じゃなかったのか、そう突っ込みそうになった航太郎だが、その後の反撃が容易に想像できたのでやめにした。
「くれぐれも言っておきますが、お嬢様を泣かせたら容赦しませんから」
 涼子は真顔でそう言った。こういう言葉を発する時、今までだったら丁寧語尾が抜け落ちているところだが、今日は冷静さを保っているようだ。それが余計に怖くもある。
「そんなことはしないよ。そうだ、よかったら室見さんも一緒に食べない?」
「ど、どうして私があなたと一緒に食べなきゃいけないのよ!」
急に慌てふためいて涼子の口調が変わった。
「いや、僕のことはどうでもいいから、むしろ和水さんと。学校じゃ相手してくれないって寂しがってたよ」
 ああ、やっぱりこっちのほうが落ち着いて見ていられるなあ、などと思いながら航太郎は苦笑いを浮かべた。それが気に障ったのか、涼子はむっと顔をしかめた。
「わ、私には別にお嬢様から頂いてるわ」
 つんけんとした態度で言い放つ。敬愛する和水から手作りのお弁当をもらったにしては今ひとつ嬉しそうに見えないのが気になる。
「用事はそれだけ。お嬢様をお待たせするのも悪いから早く戻りなさい」
 涼子は一方的に話を打ち切り、回れ右して廊下の奥へと遠ざかっていった。
「……何だったんだろう?」
 航太郎は小さく肩をすくめ、念のため締めておいたドアに手をかけて引いた。
「航太郎君、おそーい! 何やってたのよ?」
 よく通る澄んだ声が教室の反対側から航太郎の耳を震わせた。咲季を伴奏担当にしておくのは合唱部にとって損失なのではないかと思える声量だ。
 見れば、いつの間にか航太郎の席を中心としてまとめられ、ちょっとした食卓が完成している。その中心に据えてあるのが、和水の少し大きめの弁当箱だった。
 航太郎が席に着いた頃に、橋本が息せき切って教室へ駆け戻ってきた。どうやら和水の弁当のことを聞いてパンだけ買ってきたらしい。
「お待たせっ!」
「ああ、そう言えば橋本君もいたわね。適当にその辺座って」
「ひでえ!」
 素っ気なく叩き落とされ、机に手をついて落ち込んでいる橋本に、咲季は苦笑いしながら「冗談よ」と言った。
「そんじゃ、和水ちゃんの作った自信作を頂くとしましょうか」
 全員が揃ったところで、ニコニコ顔の咲季が音頭を取った。
「正直に申し上げますと自信はないのですが……」
 何となく申し訳なさそうな和水は、ご飯だけが別に詰められた箱を目の前に置いている。
「何言ってんのよ。料理は愛情。気持ちが一番の調味料なのよ」
 こういうセリフを大声で恥ずかしげもなくさらっと言ってしまえるのが咲季のすごいところだと思う。
「ねえ、航太郎君」
 それでもニヤニヤしながらこっちに振らないで欲しいと思う航太郎だった。
「ま、そんなことは置いといて。頂きまーす」
 咲季が高らかに宣言し、全員がそれに追随した。そして、自分たちの持参した弁当をひとまずは視線の外に置いて、中央にある和水の弁当箱から思い思いのおかずをつまみ、口に運んだ。
 次の瞬間、友人たちの様子を緊張の面持ちで見つめていた和水以外の全員が固まった。 勢いよくがっついた直後に神妙な顔で止まっている橋本。苦笑いを浮かべたまま目を泳がせている咲季。わざとらしい微笑みを何とか浮かべているものの、口元が震えている桂子。
 そして航太郎もまた、竜田揚げを一切れ口に入れた途端、口の中に広がる味に戸惑いを隠すので必死だった。
 そうか、涼子の言葉とあの表情の意味はこれだったのか。
 なにぶん、料理はまだまだ初心者の和水だ。当然、涼子が和水に料理を教えていると思っていた。何かと航太郎に突っかかる涼子だが、普段の和水の弁当から料理の腕が確かなのは理解しているから、その涼子が指導及びお目付役についていればと安心しきっていたのだ。
 いや、実際のところ、涼子が教えているのだろう。でも、今日のこれは違う、航太郎はそう確信した。だからこそ、涼子がああして航太郎に釘を刺しに押しかけてきたのだ。
 それに涼子は自分の分の弁当を「お嬢様から頂いた」と言ったではないか。その発言からも、この弁当に涼子が関与していないことは推測できる。  おそらく、和水が涼子よりも先に起きて一人で台所に立ったのだろう。性格的にそれくらいのことはしそうだった。
 そんなことより、今のこの場をどう切り抜けるべきか。咲季は何か言えと促す視線を航太郎に送ってくる。和水も、どういうわけかおもに航太郎の反応が気になるらしく、緊張の面持ちで航太郎を見つめている。つられて航太郎の内心にも緊張感が広がっていく。
 何とかしなければ、そう思ってしまった時点で失敗だった。航太郎が考えていることは表情に出やすいのだ。
 和水の顔つきがみるみる不安げに沈んでいく。
「お口に合いませんでしたか?」
 泣きそう、とまではいかないものの、かなりか細い声だった。途端に咲季から非難の視線が突き刺さる。
 他の三人も同じように何も言えずに固まっているのにどうして航太郎だけがそんな目で見られねばならないのか。
 理不尽だ。航太郎は諦めに似た面持ちで口を開いた。もちろん、口の中の竜田揚げはきっちりと嚥下して。
「あのさ……」
 しかし、続きを言う前に和水が箸を取って航太郎が食べたのと同じ竜田揚げをつまみ、口に運んだ。
 たちまち和水の目が皿のように丸くなり、次いで音が聞こえそうな勢いで血の気が引いていくのがはっきりと見て取れた。
「も、申し訳ございませんっ! こ、このようなものを皆様にお出しするなんて……!」
 そして和水はぶんぶんと頭を下げ始めた。普段に比べれば五、六割増くらいになっている声量のせいで、教室に残っていた他のクラスメイトまでが驚いて注目する。
 この声が涼子の教室まで届いていないことを祈りたい気もしたが、その前に、謝り続ける和水を放っておくわけにはいかない。航太郎が口を開きかけると、
「あははは、いいんじゃないの? まだ練習中だしね。正直、料理で和水ちゃんに追いつかれたらスポーツも勉強もできない私の立場がないわ」
 ……咲季に先手を打たれた。というか、これはフォローになっているのだろうか。
「ですが……」
「いいんじゃない? ちょっとばかし味付けが個性的っつうか、衝げ……がふっ!」
 いつものノリで軽口を叩こうとしていた橋本が咲季の後頭部からの一撃で沈んだ。
「橋本君はちょっと黙っててね」
「個性的なんて失礼よ。それじゃこれが藤崎さんの好みの味みたいじゃない。ねえ?」
 のほほんと言ってのける桂子もなかなか失礼かもしれない。とは言え、確かに弁当がこうなってしまったのは和水の味覚が残念なことになっているからではない。
「え、ええ、恥ずかしながらこれは失敗と言いますか……」
 バツが悪そうにシュンとうなだれる和水の姿がちょっと痛々しくて。
 航太郎はさっき食べた魚の竜田揚げとは別のおかずをつまむと、躊躇いなく口の中に放り込んだ。
「こ、航太郎さん! それは……」
 慌てて和水が弁当箱を引き上げようとするが、航太郎はそれを押しとどめた。
「一通り食べないと感想も言えないし、助言もできないでしょ。今回は何か間違えちゃったかもしれないけど、よかったらまたご馳走してよ。楽しみにしてるから」
「航太郎さん……」
 和水はようやく笑顔を見せた。
 こんな子が人殺しなんかであるわけがない、航太郎がそんなことを考えていると、咲季が和水の死角から親指を立てて見せた。どうやら及第点はもらえたらしい。
「あ、じゃあ天神の弁当、俺がもらうな」
 復活した橋本は相変わらずだったが、これはこれで和水の弁当を食べる口実を作ってくれたのだと考えることにしよう。

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