第7章  鬼と鬼斬り(後編)


「和水さん、ちょっとだけ時間いいかな?」
 授業終了の号令が済むと、航太郎は間髪入れずに隣の席の少女に声をかけた。前の席の咲季が驚きと好奇心の入り交じった視線を向けていたが、今はそれを気にしている場合ではない。
 昨日は授業が終わると同時に教室から出て行ってしまった。航太郎も志麻の家に寄る用事があったし、呼び止めてどうすればいいのかもわからなかったから呼び止めもしなかったのだが、今日はそうはいかない。志麻から聞いた話を踏まえて和水と向き合う必要があるのだ。だから、いなくならないうちに話しかけることにした。
 航太郎の呼びかけに反応した和水は、目に戸惑いの色を浮かべていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「承知いたしました。場所を変えますか?」
 多少のよそよそしさを伴った声だった。思いの外の冷たさに飲まれそうになったが、冷静を装った瞳の奥にかすかな揺れを見つけ、逃げ出しそうな気持ちを抑えた。
「そうだね。食堂にでも行こうか」
 ちらりと横目で咲季を見やると、和水からは見えないであろう位置で小さく親指を立ててサインを送ってきた。「グッドラック」とでも言いたいのだろう。
 咲季の無言の応援をありがたく受け止めつつ、航太郎は帰り支度を整えて立ち上がった。少し遅れて立ち上がった和水と連れだって教室を出る。
 廊下の奥から視線を感じて振り向くと、室見涼子がじっと見つめていた。以前に比べるとずいぶんとトゲの少ない視線だった。隠れるつもりはないのか、一瞬目が合ったが、すぐにぷいっとそっぽを向いて階段に消えていった。
 心配性の涼子のことだから、航太郎が和水に失礼な言動をしないよう牽制したかったのだろう。航太郎は小さく苦笑すると、怪訝な顔で見返す和水をうまくごまかして食堂へ向かった。
 放課後の食堂は、ホールを生徒に開放している。部活動などの団体での利用には事前の許可が必要だが、個人なら談話や自習などに自由に利用できる。
 航太郎は空いている席に和水を座らせると、自販機に向かってカップのカフェラテと抹茶オレを買い求めた。
「はい、どうぞ」
 和水の前に抹茶オレのカップを置き、テーブルを挟んで反対側に座る。
「あ、代金を……」
「いいよ、僕が勝手に買ってきたんだから。それくらいはごちそうするよ」
 和水は少し困った様子でカップと航太郎の顔を交互に見ていたが、やがて、
「では、頂戴します」
 そう言って口をつけた。
「温かい飲み物がおいしい季節になってきたよね」
 実際には少し熱すぎるくらいだったけれど、カフェラテをちびりと喉に流し込んで言うと、和水も湯気の立ち上る抹茶オレのカップを両手で包み、ぎこちないながらも微笑んだ。
「もうすぐ冬でございますものね」
 そんな表情に航太郎が思わず見とれていると、和水もそれに気づいた様子で、かすかに頬を染めて恥ずかしげに目を逸らした。
「あ、ごめん。和水さんが笑うの久し振りに見た気がして」
 実際にはほんの二日くらいに過ぎないのだが、それがずいぶん長い間のように思われたのだ。
「左様なことは……」
 和水は航太郎の言葉を否定しようとして言い淀んだ。が、それも束の間、弁明するように言葉を継いだ。
「確かに昨日は少し考え事をしていましたが、私はそれほど険しい顔をしていましたか?」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて、少し機嫌が悪そうというか悩み事を抱えてそうというか……って」
 今度は航太郎が口籠もる番だった。直接の原因を作った張本人がそんなことを言うのが白々しく感じられたのだ。
「……ごめん」
「どうして謝るのですか?」
 涼子と同じ反応だったが、和水の目には戸惑いの色があった。
「ん、事情を全然わかっていなかったにしても、僕のせいで和水さんに心配をかけてしまったことは確かでしょ。だから、そのことについては申し訳ないと思って」
 ただし、と航太郎は大袈裟に声のトーンを変えて続けた。
「ちゃんと話してくれなかったことについては、僕にも不満があるんだけどね」
「も、申し訳ございません」
 和水が恐縮しきって頭を下げるのが少しおかしかった。しかし、こんなところを涼子に見られたら後々大変かもしれない。
「そういうつもりじゃないんだよ。謝って欲しいわけじゃないんだ。それに、話さなかったのも僕が和水さんを怖がっていたからなんだよね」
 初対面の時以外にも思い当たる節はいくらでもある。体育の時のポニーテールもそうだし、薙刀をやっているという話が出た時もそうだった。そういう機会ごとに和水は航太郎の反応を気にしていた。
 実際、航太郎は和水の姿格好や何でもない言動に怯えていたのだ。その一つ一つが和水の心の中で棘になっていくことにも気がつかずに。
 おそらく、今までにもこういうことはあったのだろう。鬼斬りという存在の本当の意味を知らず、一方的に恐れて忌み嫌っている鬼は少なくないはずだから。
「鬼斬りなんて昔話でしか聞いたことがなかったから、変な思いこみで勝手に怖がっていた。そのせいで和水さんを傷つけてしまった。本当にごめん」
 航太郎はすっと立ち上がると和水に向かって頭を下げた。ホールにいた少数の生徒が何事かとこちらを見る気配があったが、そんなことは気にならなかった。
「そんな……お顔を上げてください」
 下を向いている航太郎には和水の表情は見えなかったが、その声音は困惑気味だった。
「私こそ、きちんとお話しすべきだったのです。そうでなければ、あなたに近づくべきではなかった。同じクラスの、隣の席になったのは不可抗力だとしても、話しかけたりなどしないで距離を置いて見守るべきだったのです」
 航太郎は顔を上げて和水の顔を見つめた。かすかに朱の差した頬は、しかしどこか寂しげだった。
「でも、私はそのどちらも選ぶことができませんでした。本当のことを話したらあなたは私を避けるのではないか、その不安を乗り越えることができなかった。手を伸ばせば届く場所にあなたがいるのに、素知らぬふりをすることもできなかった」
 和水は喉元に何かが引っかかったように一瞬言い淀んだが、すぐに続けた。
「一度は決めたはずなのです。二度とこのような思いはしたくないと」
「宮前梓紗さんのことがあったから、だよね」
 航太郎はそっと口を挟んだ。和水は軽く目を見開いたが、小さく息をついた。
「志麻さんからお聞きになったのですか?」
 宮前梓紗のことを聞いたかと言われれば。
「ん、ああ、そう言えば詳しい話を聞くの忘れたっけ。でも、そうだね、その梓紗さんのことで和水さんが辛い思いをしたってことだけは聞いたよ」
「左様でございますか」
 和水はそのことに対して怒っているようでも動揺しているようでもなかった。
「赤坂先輩が言ってたけど、梓紗さんって人、僕に雰囲気が似てたって?」
「え、志麻さんがそんなことを仰ったのですか?」
 今度は驚きを隠そうともせずに航太郎に尋ね返した。
 和水はしばらく思案顔で航太郎の顔を見ていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「左様な印象はございません。正直に申しますと、鬼ということ以外に共通点はないのではないかと思うのですが」
 あれ、話が違うぞ。航太郎は話の出所である先輩の顔を思い浮かべた。虚空に浮かんだその姿は航太郎に向かってピースサインなんかしていたりする。
 その時点で航太郎の脳裏には何となく嫌な予感がよぎっていた。
「え、そうなの? でも赤坂先輩は和水さんが梓紗さんと僕を重ねて見てるんじゃないかって……」
「そのようなことはございません。航太郎さんは航太郎さんです。誰かの代わりではありません」
「ありがとう。でも、だったら僕に限ってまた友達になろうと思ったのはどうして?」
 素直な疑問を口にすると、和水は急に顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。
 思い返してみれば、梓紗という名の女の子と航太郎が似ているとかいったことも、志麻から見た印象なのだとも取れた。和水がそう思っていると断言したわけではなかったのだ。単に航太郎が勘違いをしていたのか、それとも志麻に謀られたのか……。
 しかし、目の前で恥ずかしそうに俯いている和水の姿を見ると、どっちでもいいかと思ってしまう。
「そっか。理由なんて要らないんだよね」
「え?」
 和水がはっと顔を上げて、航太郎の顔をまじまじと見つめた。
「例えば咲季ちゃんが僕に話しかけてきたのにも理由なんてなかったと思うんだ。たまたま席が前後だったってだけ。それと同じ。特別な理由なんて要らない」
 和水はそれに反論すべきか同調すべきか迷っている様子だった。
「それでも和水さんには感謝してるよ。だって、和水さんが話しかけてくれなければ、僕はずっと和水さんのことを誤解したままだったと思うからね。だからさ、これからもよろしくってお願いしたいんだ」
 航太郎がそう言うと、和水は束の間きょとんとしていたが、すぐに花が咲いたように笑って頷いた。
「はい、こちらこそ不束者ですがよろしくお願い申し上げます」
「和水さん、それはちょっと言葉が違うよ」
 航太郎が苦笑いでそう言うと、和水も少し恥ずかしそうに笑った。


 ところで、航太郎にはずっと気になっていることがあった。
 以前、和水が航太郎に宮前梓紗を知っているかと尋ねたことがあったのだ。航太郎が知らないとわかると、和水は安堵とも失望とも取れる反応を示したように記憶している。
 航太郎が梓紗のことを知っていた場合には、彼女を守れなかったことに対して謝罪したかったのかもしれない。
 では、そもそもどうして航太郎が宮前梓紗という人物を知っているかもしれないと思ったのだろうか。
「どうなさったのですか?」
 和水が心配そうに航太郎の顔を覗き込んだ。
「え、いや、その……実はちょっと気になってることがあって」
「何でしょうか?」
「少し聞きにくいことなんだけど、いいかな?」
 航太郎が言葉を濁してそう言うと、和水は一瞬躊躇を見せた。しかし、すぐに表情を戻して言った。
「航太郎さんが必要なこととお考えならば」
「うん、じゃあ……」
 航太郎は深呼吸をして息を整えた。
「宮前梓紗さんのことなんだけど、和水さんはどうして僕がその人を知ってるかもって思ったの?」
「それは……」
「いや、答えにくいことならいいんだ。僕が気になっているだけだから」
 しかし、和水は軽く頷くと、航太郎を正面から見つめ、言った。
「航太郎さんが箱崎旅人さんのご友人だからです」
 確かに、和水がそのことを尋ねたのは、航太郎が和水たちの目の前で旅人と二年半ぶりに再会した日の夜だった。
 驚きの中で旅人を一同に紹介した時、和水はかすかながら確かに妙な反応を示した。その時は航太郎と同族の鬼がもう一人現れたからだと考えたのだが、そうではなかったということか。
 和水の今の答えを聞く限り、航太郎と宮前梓紗の間には箱崎旅人がいる。
 旅人は宮前梓紗を知っているのだろうか。
 宮前梓紗は和水や志麻の友人だったと聞いている。では、箱崎旅人との接点はどこにあるのか。
「梓紗さんが話してくださったことがあります。年に一度か二度、長期のお休みを利用して親戚の住む田舎に遊びに行くと」
 和水が懐かしむように言った。
「とても自然の美しいところだと楽しそうに語ってくださったのです。その親戚の方のこともお話しくださいました。その方のお名前が箱崎旅人さんでした」
 和水の話におかしなところは何もない。だが、航太郎は解せなかった。
「梓紗さんは同じ年頃の子供たちと走り回って遊んでいたと仰っていましたので、それならば航太郎さんもご存じなのではないかと思ったのですが」
 そうなのだ。旅人のところへ時々遊びに来ていたのなら、よほど家に閉じ籠もっていたのでない限り、航太郎が知らないはずがない。
 その時、航太郎の頭が何かにちくりと刺されたように痛んだ。
「……っ!」
 航太郎が思わず顔をしかめると、和水が慌てて尋ねてきた。
「航太郎さん!? いかがなさいました?」
「ごめん、大丈夫。それよりさ、梓紗さんは一緒に遊んでいた子供たちの名前とかは言ってなかったの?
「え? そうですね、そこまでは仰らなかったように記憶しておりますが」
「そっか。じゃあ仕方がないね」
 航太郎は平静を装ってそう答えたが、心中は穏やかでなかった。和水の話が確かなら、宮前梓紗と一緒に遊んでいた子供たちの中には航太郎がいたはずなのだ。
 梓紗が来た時に航太郎が爪弾きにされていたのか、あるいは旅人と梓紗が別の子供たちと遊んでいたのか。
 どちらもないと言い切っていいと思う。一時的にでも航太郎が仲間はずれにされた覚えはないし、別の子供たちが住んでいる場所はちょっとばかり離れているのだ。
 あるいは、梓紗が嘘をついているとか。だが、何のために?
 これは、確かめてみるしかないか。
「そろそろ帰ろっか。途中まで一緒にどう?」
「ええ、喜んで」
 満面の笑みで応じる和水に顔が熱くなるのを感じつつ、航太郎は和水の紙コップに自分の分を重ね、ゴミ箱まで捨てに向かった。
 航太郎と和水が二人きりで帰るのはかなり久し振りだったのだが、宮前梓紗のことが気にかかっていた航太郎はどこか上の空だった。


 坂の入り口で和水と別れて帰宅した航太郎は、携帯電話の電話帳から祇園恭介の電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
 コール音がしばらく続いた後、ガチャリと応答する音が聞こえる。
「もしもし、恭介……」
『はい、祇園です。ただいま電話に出ることができません。発信音の後に……』
 留守電の応答メッセージは何故か姉の舞衣の声だった。
「……あのシスコン男め」
 航太郎は八つ当たり気味の悪態をついて電話を切ったが、今の応答メッセージでふと思いついて、舞衣にかけてみることにした。
 再びコール音が数回流れ、今度はさっきよりも早めに応答があった。
「あ、舞衣? 僕……」
『もしもし、航ちゃん? 航ちゃんだよね。こんにちは』
 恭介と違って落着きのある舞衣にしては、やたらとテンションの高い弾んだ声だった。ともあれ、留守電ではなく本人で間違いないようだ。
「あ、ああ、こんにちは。何かいいことでもあったの?」
 舞衣に圧倒されている自分に驚きながら問いかける。
『え? うん、だって航ちゃんから電話してくれるとは思わなかったから。ごめんね、はしゃいじゃって』
「い、いや、別に構わないよ」
 むしろ、電話をかけたくらいでそこまで喜んでもらえるというのは悪い気がしない。何しろ舞衣は容姿と言い性格と言い、どこに出しても恥ずかしくない美少女なのだ。
『それで、今日はどうしたの? 航ちゃんのことだから、ただ世間話がしたくて電話したわけじゃないんだよね?』
「うん、聞きたいことがあってね」
『なになに? 何でも聞いて』
 舞衣の口調にはどこか期待するような響きがあった。
「それが、ちょっと聞きにくいことなんだけど……」
 和水に尋ねた時も同じような聞き方をしたのを思い出して苦笑した。
『なぁに? 恥ずかしいことじゃなければ構わないよ』
 柄にもなく悪戯っぽさを演じながらくすくす笑っている舞衣に後押しされ、航太郎は思いきった。
「あのさ、宮前梓紗さんって知ってる?」
『……っ!』
 電話機の向こうから息を飲む音が聞こえた。その反応が何よりの肯定だった。
「知ってるんだね」
 電話口でも明らかにわかる舞衣の狼狽に、航太郎も思わず追い打ちをかけるような言葉を口にしてしまう。
『どうして……もしかして航ちゃん、思い出したの?』
 舞衣の反応は予想外のもので、航太郎はその言葉を反芻する時間が必要だった。
「どういうこと?」
 ようやく尋ね返した航太郎の声は自分でも意外なくらいに硬くなっていた。
『あ……』
 舞衣はそこでようやく自分の失言に気づいたようだ。言葉を探しているらしく、しばらく沈黙が続いた。
『えっと……誰に聞いたのかな?』
 舞衣がおずおずと呟く。苦し紛れの問いかけなのだろうが、出した言葉を引っ込めることはできない。舞衣は航太郎に、思い出したのかと尋ねた。つまり、航太郎自身が宮前梓紗のことを知っていたはずだし、更にその存在を何らかの理由で忘れているはずなのだ。そこまでの経緯を舞衣は知っている。
 しかし、叱られた子供のような声で、上目遣いに見上げる姿まで目に浮かびそうな舞衣をこれ以上詰問するのは忍びなかった。これが恭介にでも知れたら一悶着起こるのは避けられまい。
「ごめん。困らせるつもりはなかったんだ。うん、また電話するね」
 航太郎はそう言って電話を切ろうとした。
『待って!』
 舞衣が慌てて声を上げるのが聞こえ、航太郎は携帯電話を再び耳に当てた。
『航ちゃん、まだ質問に答えてないよ』
 質問? 航太郎は何のことかと少し考え込んで思い当たった。しかし、和水のことをどこまで話していいものか。
「ああ、たまたまこっちに梓紗さんの友達だったって人がいてね、僕らの村のことを聞いてたみたいなんだ。それで梓紗さんのこと知らないかって聞かれたってわけ。それでどういうわけか頭の中がもやもやしてたから」
 旅人のことを伏せて適度に話をごまかすと、舞衣は『そっか』と呟いて、
『じゃあ、航ちゃんは梓紗お姉ちゃんが……』
 そこで言い淀んだが、何を聞きたいのかはわかった。
「うん、亡くなったってことは知ってる」
 航太郎がそう答えると、
『そっか』
 もう一度そんな相槌が返ってきた。
 二人の間に沈黙が流れた。航太郎は舞衣の反応を窺い、そして舞衣は何を言おうかと迷っている様子だった。
『あのね』
「うん?」
『航ちゃんは梓紗お姉ちゃんのことが大好きだったんだ。梓紗お姉ちゃんが遊びに来てる時はいつもよりずっとはしゃいで、何かにつけて旅人お兄ちゃんと張り合ってた。それが私には子供心にちょっとだけ妬ましくもあったけど、梓紗お姉ちゃんは明るくて元気できれいな人だったから、仕方ないかなって恭介と二人で笑いながら見てた』
 舞衣は懐かしそうに言ってクスクスと笑った。
 自分が覚えていないことを話されるというのは、なかなか恥ずかしいものだ。赤ん坊の頃に何をしたとか聞かされているようでむず痒い。
『私も恭介も梓紗お姉ちゃんのこと大好きだったけど、航ちゃんには適わなかったなあ。だから……』
 舞衣は言葉を途切れさせた。
『だから航ちゃんは梓紗お姉ちゃんのことを忘れちゃったんじゃないかな。航ちゃんにはあまりにも辛いことだったんだと思う。……もしかしたら思い出さないほうがいいのかもしれないよ』
 舞衣の探るような口調に航太郎の胸がちくりと痛んだ。きっと、梓紗のことを忘れてしまった時にも舞衣や恭介たちを心配させてしまったのだろう。
 しかし、それくらい航太郎にとって大切な人だったのなら、尚更忘れたままでいるのが辛かった。舞衣や恭介、旅人、志麻や和水にとっても梓紗の死は辛い思い出なのだ。航太郎だけがそこから逃げているのは卑怯な気がした。
「ありがとう。でもやっぱり梓紗さんのことは覚えておくべきだと思うよ」
『梓紗姉ちゃん、だよ』
「え?」
 何を言われたのかわからなくて聞き返すと、舞衣はおかしそうに笑った。
『航ちゃんは梓紗お姉ちゃんをいつもそう呼んでた。そういうことでも思い出すきっかけになるかもしれないでしょ』
「……ありがとう」
『うん。また電話ちょうだいね。用なんてなくても構わないから』
 舞衣の言葉に、航太郎は少しわざとらしい口調で返す。
「そうだね。都会暮らしで寂しくなったら電話するよ。恭介の声じゃ癒されないからさ」
『恭介が聞いたら怒るよ』
「癒されるって言ったほうが恭介は気味悪がるよ」
『それもそっか』
 そんなことを話して二人で笑いあった。
「冬休みにはたぶんそっちに帰ると思うけどさ、時間があったら恭介と一緒にこっちにも遊びに来てよ。旅人のアニキもいるし」
『そうだったね。旅人お兄ちゃん、こっちに帰ってくる予定はないのかな。ずいぶん長いこと会ってないし。えっと……』
「二年半くらい」
 航太郎が先回りして言うと、舞衣も『うん、それくらいだよね』と頷いてから、『あ』と小さく声を上げた。
『旅人お兄ちゃんがいなくなったのって、梓紗お姉ちゃんが亡くなったすぐ後くらいだよ』
「そうなの?」
『うん。梓紗お姉ちゃんもその街に住んでたんだよね。何か関係あるのかな?』
 何となく気になっただけといった感じの口調だったが、航太郎は内心で何かが引っかかっていた。この街で再会した旅人のはっきりしない口ぶりを思い出したせいかもしれない。
『そっちに行った理由が、梓紗お姉ちゃんの近くにいたかった、だったらちょっとロマンチックじゃない?』
「そうかな……あれ、ってことはアニキと梓紗姉ちゃんって?」
 舞衣らしい発想に曖昧な相槌を打った航太郎だが、その話に前提があると気がついた。
『うん、航ちゃんには気の毒だけど、そうなんじゃないかな』
「気の毒って、何で?」
『だって、航ちゃんも梓紗お姉ちゃんのことが好きだったんだと思うから。あ、つまり、女の子として。でも、思い出せないのにそんなこと言われても困るよね』
 航太郎は、自分が記憶に蓋をしてしまった理由が少しだけわかる気がした。おそらく、梓紗は航太郎にとって初恋の相手だったのだろう。だからこそ、その死に航太郎の心が耐えられなかったのだと考えられる。
 だが、気になるのは旅人だ。旅人は舞衣が言うような理由でこの街に来たのだろうか。
『あの髪の長いコな、気をつけたほうがいい』
 旅人は航太郎にそう忠告した。和水の素性に気づいての言葉だとすれば、志麻が話してくれた鬼斬りの本来の姿を知らないと考えられる。
 その上で、梓紗の死に鬼斬りの和水が関与していると知ったら、旅人はどういう行動に出るだろうか。
 航太郎は言い知れぬ不安を覚え、胸を押さえた。

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