第6章  中庭の幽霊(前編)


「航太郎君、知ってる?」
 ある昼下がりの休み時間、次の授業の準備が万端であることを確認して一時の休息を味わっていた航太郎に、前の席の咲季が振り向いて問いかけた。
 咲季が話しかける場合にはいつものことなのだが、こういう問いかけをされると航太郎にできる返答など無視する以外には一つしかない。
「何を?」
「幽霊の話」
「幽霊?」
 普通なら突拍子もない話を持ちかけられたものだと思うところだが、相手が咲季であればこれは日常茶飯事と言ってもよかった。
 はあ……。航太郎は心の中だけで溜息をついて咲季の話し相手を務めることにする。
 好奇心の旺盛な咲季は変わった話を好んだ。特にこういったオカルトめいた話題は大好物で、どこかで話を聞きつけるたびに航太郎や橋本を捕まえては楽しそうに語って聞かせる。あまりに楽しそうなものだから、怖い話も怖くなくなってしまうほどだ。
 幸い、話している本人も話のネタ程度に考えているようで、町内の心霊スポットに行ってみようとか、UFOを観測しようとかいった行動に出たことはないのだが、それにしてももう少し年頃の女の子らしい話題があってもいい気がする。
 ……それはそれで咲季には似合わないように思えてくるのは何故だろう。
「で、幽霊って今度はどこの幽霊?」
「何よ、そんな厄介事持ち込まれたみたいな顔して。人の話はもう少し楽しそうに聞いてもらいたいわね」
 このやり取りも定型文のようなもので、わざとらしく口を尖らせて拗ねてみせる咲季も目の輝きに変化はない。
「で、今回はね。ここよ」
 そう言って咲季が人差し指で床を示した。
 ここ、と言われて少しだけ背筋が寒くなった航太郎は、小さく身を震わせて周囲を見回した。
「あははは、違う違う。もしかしたらこの教室にもいるかもしれないけど、そういう話じゃなくて、この学校ってこと。古い学校だから昔から色々あったらしいけど、私が知ってるのは古い話ばかりだったのよ。それが、久し振りに見たらしいのよ」
 確かにこの学校なら幽霊くらい出てもおかしくない佇まいは持っている。校舎自体は外から見れば少し古い程度の鉄筋コンクリート造りだが、中に入ってみれば床はほとんど木張り。廊下を歩けばギシギシと軋みを上げるから、遅刻した生徒がこっそり教室に入り込むなどということはできない。たくさんの生徒が廊下を行き交う休み時間などは廊下の音だけでも賑やかなものである。また、校舎と同じくらい年代物の講堂もなかなかのもので、合奏練習に使っている吹奏楽部がピアノを移動させていたところ、床の一部が抜けて凹んだという話を聞いたことがある。
「それも幽霊を見たのって昨日の話よ、昨日。取れたてホヤホヤの新ネタなの。きっとその幽霊、まだどこかをうろついてるわ」
「いや、胸の前で両手を合わせてうっとりと言うようなことでもないと思うよ」
 航太郎の溜息混じりのツッコミも咲季の耳には届いていないようだ。
「で、その幽霊の目撃者の話を聞かせてくれるんじゃないの?」
 本当は聞かなくても一向に構わないのだが、そうしないことには咲季も航太郎をリリースしてくれまい。不承不承といった態度も露わに尋ねると、現実世界に舞い戻った咲季が話し始めた。
「それがさ、見たのは比恵先生なのよ」
 ああ、それでか、航太郎はいつもに増して咲季が喜々としている理由を察した。
 比恵先生こと東比恵(あずまひえ)はこの学校の音楽教師で、合唱部の顧問だった。そして、川端咲季は合唱部員だったりするのだ。それを知った時、道理で声がきれいなわけだと妙な納得をした航太郎だったが、その実、咲季は専ら伴奏ピアノの担当らしい。
 それはさておき、所属する部活の顧問という、咲季のよく知っている人が幽霊を目撃したというのだから、咲季のテンションが上がるのも仕方のないことだろう。
「昨日、部活が終わって私たちが帰った後の話なんだけどね。比恵先生は音楽室で残った仕事を片付けていたらしいのよ。で、音楽室から中庭が見えるでしょ」
「ん、そうなの? 音楽室には縁がないからよくわからないんだけど」
「そっか、航太郎君は美術選択だしね。入ったことないんだっけ、音楽室。……とにかく見えるのよ。それでね、中庭に小さな記念碑があるのは知ってる?」
 それには見覚えがあった。中庭の芝生の真ん中にぽつんと佇んでいる石碑だ。ずいぶん昔に有名な物理学者がこの学校に講演に訪れた記念に建てられたものだと聞いている。
「そうそう、あれよ、あれ。でね、音楽室で仕事をしていた比恵先生が何気なく窓の外を見たらしいのよ。そしたら、その記念碑に白い人影が座っていたって言うの。最初は生徒かなって思ったらしいんだけど、ほんの一瞬目を離した隙にその人影が消えてたらしいのよね」
「単にその生徒がいなくなっただけなんじゃないの?」
 航太郎が指摘すると、咲季は人差し指をチッチッと振ってニヤリと笑った。
「あの石碑って芝生の真ん中に建ってるでしょ。周りに隠れる場所があるわけでもないし、目を離したのって首をぐるっと回す程度の時間だったのよ。本当に生徒だったら立ち去るところが見えるはずでしょ」
 それに、と付け足して続けた。
「比恵先生が見たのは全身白い人影なのよ。今、何月かしら?」
 質問に脈絡がない気もするが、言われて自分と咲季の服装を見ればわかる。もう衣替えして生徒の制服は冬服。男子は黒の学生服だし、女子は濃紺のセーラー服だ。
「体操服とか?」
 幽霊説をどうしても否定したいわけではないのだが、敢えて対抗意見を提示してみる。
「中庭で? 運動部のランニングコースってのはさすがに無理があるわよ」
「じゃあ、演劇部の衣装とか、他の先生だったとか」
 尚も食い下がる航太郎に痺れを切らしたのか、咲季が大袈裟に両腕をかざして言った。
「だから。比恵先生が記念碑から目を離した時間はものの一秒あるかないかなのよ。その短時間に消えたんだから、人間ではあり得ないの」
 だったら先生の目の錯覚ではないのか、と言おうとして航太郎は止めた。比恵先生本人もきっと何かの見間違いだと思っているはずだ。それでも話したのは、咲季のオカルト趣味を知っているからだろう。
「音楽室から見える中庭だったら、運が良ければ咲季ちゃんも見られるんじゃない?」
 普通は幽霊を見るなんて運が悪い場合なんだろうけど、という言葉は胸にしまっておく。
「だといいけど。放課後は中庭もひっそりとしてるから、何か出てもおかしくない雰囲気はあるのよね、特に黄昏時なんて」
 またしてもうっとりとした表情を浮かべている咲季。と、急に名案を思いついたと言わんばかりに手を叩いた。
「そうだ。せっかくだからみんなで幽霊が出るのを待ってみない?」
「ダメだよ。遅くまで残ってると先生にも怒られるだろ」
「大丈夫よ。別に暗くなるまでどこかに隠れてるとかそういうつもりはないから。下校時間になればちゃんと帰るわよ。桂子、橋本君、ちょっと来て。和水ちゃんは……って、まだ戻ってきてないか」
 大声で呼ばれて何事かと二人が寄ってくる。
「部活は五時で終わるからその後に音楽室に集合ね」
 単刀直入にも程がある。当然、桂子と橋本は口々に説明を求めた。咲季がもう一度中庭の幽霊の話を二人に聞かせている間に和水が教室に戻ってきた。
「……と、いうわけなの。和水ちゃんもよろしくね」
 グループの良心として、ここは何とか制止をかけてくれないかと航太郎は期待したのだが、意外にも和水はあっさりと頷いた。
「承知いたしました。遅くならない程度であれば参加いたします」
 思わず溜息を漏らす航太郎に、桂子がふわふわと微笑みながら言った。
「音楽室でお茶でもすると思えばいいんじゃない? 咲季ちゃんのピアノも聴けるし、楽しそうだと思うけどな」
 そう言われれば悪くない気がする。幽霊を待ち構えようなんて口実だと思えばよい。
「まあ、そういう考え方もあるか」
「じゃ、決まりね」
 満面の笑みを浮かべた咲季を前にして、尚も異を唱えることなど航太郎にはできなかった。


 そして放課後。
 部活中の咲季を除く四人は、指定された五時過ぎまで図書館で時間を過ごした。その後、桂子の提案によりいったん学校を出て近くのデパートのケーキ屋でシュークリームを買って音楽室へ向かった。桂子は幽霊そっちのけでお茶を楽しむ気満々らしい。
 音楽室は増築された新校舎の一階の端にあった。中庭を挟んで旧校舎の向かいに立つ新校舎には、音楽室の他に家庭科室などの特殊教室と一年生の一部のクラスの教室が入っている。新校舎と言っても、旧校舎に比べれば新しいという程度でしかないが、旧校舎と異なり床はリノリウムだった。
 航太郎たちの教室は旧校舎側だったので新校舎にはあまり縁がなく、転校生の航太郎は音楽室が新校舎にあることは知っていても具体的な場所までは知らなかった。
 桂子たちの後について新校舎を進んでいくと、そのうちピアノの音が聞こえてきた。桂子がふわふわの笑顔を更に綻ばせて言う。
「咲季ちゃんね。合唱部の練習はもう終わったみたい」
「相変わらず大した趣味してるよな。あの曲で幽霊が呼べそうだ」
 橋本が苦笑混じりに言った。
 咲季が弾いている曲は「展覧会の絵」の「カタコンブ」だった。幽霊が呼べそうというのも頷ける。航太郎たちまで音楽室に集めた趣旨にはぴったりの選曲だ。咲季は音楽までオカルト趣味らしい。いい具合に暗く沈んだピアノの音を聞きながら、航太郎は「幻想交響曲」なんか咲季の好みにクリティカルヒットだろうなと思った。
「いつもこんな曲じゃないのよ、念のために言っておくけど」
 そう言ってフォローを入れる桂子の表情も複雑だった。
 音楽室の入り口には簀の子が敷かれている。そこで靴を脱ぎ靴箱に並んでいるビニールのスリッパに履き替えている間に、扉の向こうから聞こえてくる曲は「バーバ・ヤーガ」に変わっていた。
 防音効果の乏しそうな薄い扉を開けて中に入ると、正面に五線の入った黒板。その手前にグランドピアノが一台あって、更に手前に机付きの折りたたみ椅子が並んでいた。中庭に面した窓は黒板に向かって左手にあり、窓際にグランドピアノがもう一台ある。咲季が弾いているのはその窓際のピアノだった。他の部員たちは既に帰った後らしく、他に人の気配はなかった。
 差し込む夕日に照らされて一心に鍵盤を叩いている咲季の姿は堂に入っていた。弾いている曲も決して簡単なものではないから、高校生としてはかなり高い演奏技術を持っていることがわかる。
 最初は航太郎たちの入室にも気がつかない様子で弾き続けていたが、四人がピアノに近づいていくうちに気づいたらしく、こちらを一瞥して演奏する手を止めた。
「これ以上続けると最後まで弾けないのがばれちゃうわ」
 咲季は笑いながらそう言ってピアノの蓋を閉じた。
「シュークリーム買ってきたの。みんなで食べよう」
 桂子が咲季の視線をこちらに促しながら言ったので、航太郎は持っていたケーキ屋の箱を掲げてみせる。
「わあ、いいね。すぐコーヒー入れるわ。インスタントだけどね」
 咲季はそう言ってスリッパをパタパタ鳴らしながら準備室の扉の向こうへ消えた。桂子の説明によると合唱部の部室を兼ねているらしい。
 残された航太郎たちは窓際へ寄って中庭を覗いてみた。確かにここからなら芝生の記念碑が目に入る。
「桂子ぉ、ちょっと手伝って」
 準備室の扉の向こうから咲季の呼ぶ声が聞こえた。
「行ってくるね」
 そう言い残して桂子も窓辺を離れた。
 手持ち無沙汰の航太郎たちは、夕日を浴びてほんのりとオレンジ色に染まった中庭を眺める。
「確かに何か出そうな雰囲気はあるけど」
「ま、咲季だって、幽霊が出てくれれば面白いとは思ってるだろうけどさ、どっちにしたって楽しけりゃそれでいいんだよ」
 橋本は中庭の風景など見飽きているといった様子で窓に背を向けてもたれかかっていたが、やがてふらふらと黒板のほうへ歩いていった。
 そこで航太郎は、和水がずいぶんと熱心に中庭を観察しているのに気がついた。
「和水さん、和水さん? ねえ、和水さん」
「あ、はい」
 何度も声をかけてようやく気がついたようだ。よほど集中していたのだろう。
「もしかして和水さんも幽霊を信じるほう?」
 からかい半分の質問だったのだが、和水から帰ってきたのは予想外の問いかけだった。
「航太郎さんは、信じないのですか?」
 まっすぐ航太郎を見つめてくる。口元には笑みが浮かんでいるが、その眼差しは真剣そのものだった。
「半信半疑かな。幽霊なんていないって信じているわけじゃない。いるんじゃないかなとは思う。でも、実際に見たことは……」
「ないのですか」
 その一言は質問、それとも確認だったのか。航太郎はどちらでもない気がした。ただ、信じられないという思いが口をついて出たような響きがあった。
 一応、鬼の一族を称している天神家だが、実際には普通の人間と何も違いはない。遠い昔に何らかの理由で区別された血筋というだけの話に過ぎない、航太郎はそう思っている。確かに、鬼の血を引く者は普通の人間に比べれば霊の見える者が多いと聞いたことはあるが、誰もが見えて当たり前というものではないのだ。
 しかし、まっすぐに航太郎を見つめる和水の視線は、心なしか責めているようにも感じられた。その視線に耐えられなくなった頃、準備室の扉が開いて、咲季と桂子が紙コップや紙皿の乗ったトレイを持って戻ってきた。
「お待たせ。他にもお菓子が残ってたから持ってきたわ」
 そこで航太郎はほっと息をついて窓際を離れ、咲季たちの近くへ寄った。
 咲季が持ったトレイを見ると紙皿の上にチョコチップクッキーやビスケットといったお菓子が載せられていた。桂子のトレイには人数分の紙コップから湯気が立ち上っている。
「インスタントでごめんね。さすがに部室にコーヒーメーカーまでは置いてなくって。先生の部屋にはあるんだけど、今日はもう帰っちゃったから」
 そう言いながら準備室の反対側にある教員室の扉を見やる。扉の位置から察するに、教員室はこの部屋と同じく中庭に面しているようだ。
「東先生が幽霊を見たのは、あそこから?」
 視線で教員室の扉を示して尋ねると、咲季はにこにこと微笑みながら頷いた。
「そうよ。比恵先生の机は中庭向きの窓際に置いてあるの。そこで仕事をしていると、例の記念碑は位置的にだいたい視界の右四十五度くらいに入る感じになるわ。不審な影があれば気づいてもおかしくないでしょ」
 比恵先生の目撃状況を説明する咲季はとにかく嬉しそうだった。ここまで喜々として話していれば、幽霊も遠慮して影を潜めるのではないかと思える。
「和水ちゃん、中庭の様子はどう?」
 咲季は窓際に留まっている和水に尋ねた。航太郎が話を強制終了したことに機嫌を損ねたのか、そこから動く様子はなかった。
「今のところ異常はないようです」
「そう。じゃ、こっちに来てお茶にしない? ここからでも中庭は見えるわよ」
 咲季が手招きをすると、桂子も咲季に援護の言葉を足した。
「今くらいの時間だと時々生徒が通るから、幽霊さんもまだ出てこないんじゃないかしら」
「左様ですか。では、失礼しまして」
 ようやく和水は窓際を離れてこちらへとやって来た。それを待って咲季がケーキ屋の箱を開け、途端に歓声を上げる。
「うわぁ、ここのシュークリーム好きなんだ。さすが桂子、よくわかってるじゃない」
「長い付き合いだもの。それに、私だってこのお店のお菓子は好きだし」
「あ、俺も俺も。ケーキもうまいんだよな」
 桂子のみならず橋本も咲季に続いた。航太郎は知らなかったが、どうやら人気の店らしい。
 三人がはしゃぎながら次々と箱の中に手を伸ばしていく。次いで航太郎に促された和水、そして最後に航太郎と順番が回って、全員にシュークリームが行き渡った。
「それじゃ、いただきまーす!」
 咲季の元気なかけ声にその場の全員が唱和して、思い思いに囓りついた。確かにおいしい。咲季のテンションが上がるのも頷ける。
「洋菓子はあまり頂かないのですが、これはおいしゅうございますね」
 和水も気に入った様子だった。そこに咲季が「でしょでしょ」などと言いながら絡んできて、あっという間に賑やかなティータイムへと変わってしまう。
 そうして騒いでいるうちに、いつの間にか窓の外の景色には夕日のオレンジ色がより濃く染み込んでいた。こういうのを逢魔(おうま)が時と呼ぶのだろうか。
「でも、こう賑やかだと幽霊が出てくるって雰囲気じゃないよね」
 航太郎が思わずそう言ってしまったのは、「音楽室のお茶会」に少し浮かれていたせいだろうか。
 それを聞いた咲季は、
「それもそうね」
 などと言って窓際のピアノにつかつかと歩いていった。
「じゃ、何かそれっぽいムードの出る曲を弾くわ。そうね……」
 と言いながらピアノの蓋を開け、何かを思いついたのかフッと少しいたずらっぽく微笑んで座った。ゆっくりと両手を鍵盤の上に運び、柔らかいタッチで演奏を開始した。この、ファゴットからバセットホルンにつながる音色が思い浮かぶ陰鬱なフレーズは……。
「レクイエム、か」
 おそらく合唱伴奏用なのだろう。ピアノに編曲してはあるものの、間違いなくモーツァルトのレクイエムだった。
「そう。航太郎君、よく知ってるね」
 合唱パートの旋律まで付け加えながら弾き続ける咲季が、航太郎の反応に顔を綻ばせた。それでもピアノから流れる音は鬱々としているから大したものだ。
「まあ、ね」
 祖父と父の趣味で家にはLPが大量にあり、それをよく一緒に聴いていたためだ。おかげで、演奏家の知識はかなり昔に偏っている。
「確かにムードはそれっぽい曲だけど」
 自分でも余計なことと思いつつ、航太郎はこう言わずにいられなかった。
「レクイエムだと幽霊はむしろ大人しくなっちゃうんじゃない? 鎮魂曲なわけだし」
「……あ」
 結局、下校時間になるまで不審な影は出現しなかった。


「残念だったねえ」
 明るく言う咲季の表情はまったく残念そうには見えなかった。
「ま、これから日も短くなるし、そのうちお目にかかる機会もあるかもしれないわね。放課後はたいてい近くにいるわけだし」
 咲季の態度はからっとしたものだ。結局、橋本の言うようにみんなで集まりたかっただけなのだろう。
 その橋本は既に自転車で走り去った後だった。橋本一人、校門から出てすぐに帰宅ルートが分岐するのだ。残りの四人は目下、徒歩で商店街を通過中である。
 次にこの集団から離れるのは航太郎だった。商店街から脇道に入り、ちょっとした坂道を上り下りするのがマンションまでの最短ルートになる。
 この坂の頂上には神社があり、そここそが引っ越しの夜に和水と出会った場所だった。そのため、引っ越しからしばらくはこの道を避けてわざわざ迂回して行き帰りしていたのだが、今では気にすることもなく通っている。
 咲季たち三人はこのまま商店街を直進して通り抜けるため、坂の入り口で航太郎と別れることになる。
「それじゃ、また明日ね」
 咲季がすっと右手を挙げて言った。桂子も「またね」とひらひら手を振り、和水はいつもの通り礼儀正しくお辞儀をした。音楽室での話のことを気にしている様子はなかった。
「うん、また明日」
 航太郎もそう答えて手を振り、歩いていく三人の後ろ姿を見送った。いつもに比べて遅い帰りだが、人通りの多い商店街で、かつ和水もいるのだから問題はあるまい。航太郎は踵を返して坂道を上り始めた。
 一人になってから和水との会話が気になり始めた。航太郎が幽霊を見たことがないという事実に驚きを隠さなかった和水。
「じゃあ和水さんは見たことがあるのか? むしろ日常的に見ている? ……ありえない話じゃないよな。和水さんだったらそれくらい不思議じゃない気がする」
 周りに誰もいない時の癖で考え事を声にしているうち、道の左手に古びた石の鳥居が見えてきた。そう言えば日没後にここを通るのはあの時以来だ。さっき別れたばかりだから、あの晩のように石段から和水が下りてくることはないはずだが、心持ち緊張する。慣れたつもりでいたが、暗いとまた別らしい。
 そうして身構えていたせいだろうか、視線を向けることなく鳥居の前を通過するその刹那、鳥居の向こう、視界の端に白い影が見えてギョッとした。途端に学校の幽霊の話を思い出し、思わず小走りになる。下り坂で危うく足がもつれて転がり落ちそうになるのをどうにか持ちこたえた。
「今帰り? ずいぶん遅いんだね」
 後ろから声をかけられて航太郎はびくりと肩を震わせ、反射的に坂を下る足を速める。
「ちょっと、航太郎でしょ。待ってくれたっていいじゃないのよ」
 第一声ではわからなかったが、その声が聞き覚えのあるものだと気づいて立ち止まり、おそるおそる振り返ると、わざとらしく頬を膨らませた赤坂志麻が小走りで航太郎に追いついてくるところだった。白っぽいセーターにジーンズという格好の志麻は、たった今航太郎を怯えさせた影の正体に間違いなかった。
「やっぱり航太郎だった。学校の外で会うのは初めてだよね」
「……赤坂先輩」
 一気に肩の力が抜けていった。同時に、爽やかな笑顔を浮かべている志麻に恨み言の一つも言ってやりたくなった。
「脅かさないでくださいよ。何だってこんな時間に神社から出てくるんですか?」
「え? だってここ、あたしの家だよ」
 知らなかった? と首を傾げる志麻。
 そんなの初耳だ。
「だいたい、あたしは脅かしてなんかいないよ。航太郎が勝手に腰抜かしたんじゃないの。失礼だよ、女の子を見て怖がって逃げ出すなんて。これが涼子ちゃんだったらまた一悶着だから」
 憎悪に燃えた瞳で航太郎の無礼を責める涼子の姿が容易に想像できて身震いした。
「……ごめんなさい」
 素直に謝っておく。
「別に構わないよ。航太郎のお茶目なところを見せてもらったしね。ま、君はそれくらい臆病でちょうどいいよ」
 どういう意味だろう。少なくとも褒められている気はしない。
 それから、志麻に促されて並んで坂道を下り始める。
「こんな遅くまでうろうろしてると和水に怒られるよ」
 遅いと言ってもまだ七時過ぎくらいだ。それに、普通は両親に怒られるなどと言うものではないだろうか。どうしてそこで和水の名前が出てくるのか。
「ついさっきまで一緒にいましたよ」
 そう言い返すと、志麻がニヤニヤ笑いながら期待に満ちた眼差しで航太郎を見つめた。何を考えているのかたやすく察しがついたので、急いで付け加えた。
「クラスメートも一緒です!」
「そう、残念だったね。で、何をしてたの?」
 何が残念なのかは聞き流すとして、ふと音楽室での和水との会話のことを志麻に聞いてみようかと思いついた。航太郎の正体を見抜いていた志麻なら何かしら説明をつけてくれるかもしれない。


「なるほど。その合唱部の子、面白そうだね。あたしと気が合うんじゃないかな」
 放課後に至る一連の出来事を航太郎が極めて大雑把に説明した後、志麻が最初に漏らした感想がこれだった。確かに咲季と志麻はキャラクターが重なっている気がするが、航太郎が今聞きたいのはそんなことではない。
「そうじゃなくて。和水さんが言ったことなんですけど……」
「ん? ああ、幽霊を見たことがないのかって話? そうだね、正直に言うとあたしにとっても意外かな」
 まるで、話題の映画を観ていないことを不思議がっているくらいの口調だった。
「さらっと言ってますけど、だったら和水さんや赤坂先輩は見たことあるんですか?」
「あるよ。っていうか日常的に見てる。……ああ、そこの角にも大人しいのが一人いるよ。ちょっと見えづらいけどね」
 下り坂の出口にある交差点の片隅を指差しながら軽い口調で言う。
「はい?」
 志麻が指し示す場所をじっと見つめるが、それらしいものは何も見当たらない。
「いつも見かけるわけじゃないから、ここで事故死した地縛霊ではなさそうだね。たまにいるんだよなあ。例えば眠ってるうちにぽっくり逝っちゃったとかで、自分が死んだことに気づかないで暢気に散歩してる幽霊。ま、取りあえずは人畜無害だから放っておいても大丈夫だよ。せいぜい近くを通られたら耳鳴りがする程度」
 ……これは何の冗談だろうか。
 もしかすると、志麻は航太郎の話を聞いて即興でドッキリを仕掛けているのかもしれない。志麻の顔はいたって真面目だが、悪ふざけのためならそれくらいの演技はやってのけそうだ。
「あ、その顔は信じてないな。鬼のくせに幽霊を迷信扱いするつもり? いったいどういう教育を受けてきたんだろうね。君の家は鬼としての自覚が足りないんじゃない?」
 妙な言いがかりをつけられた。そもそも、天神家では鬼の末裔だからどうとかいう教育など受けていない。せいぜい独自にアレンジされた昔話を聞いていた程度だ。
「まあ、自覚云々は半分冗談なんだけどね」
 そう言って志麻は立ち止まり、腕を組んで困ったように首を傾げた。
「詳しく説明するのはやぶさかじゃないんだけど、あたし、今あまり時間がないんだよね。買い物頼まれてるし、早めに済ませて戻らないといけないんだ。いずれ機会を改めてってことでいいかな?」
 それは別に構わない。気になるといえば気になるが、今すぐ納得のいく説明が得られなければ夜も眠れないというほどではない。
「僕のほうは急ぎませんよ。先輩の都合のいい時で結構です」
「わかった。なるべく近いうちに時間作るね。じゃ、あたしはこっちだから。またね」
 志麻は航太郎のマンションとは別の方角を指差して言った。その道の先にあるスーパーが目的地なのだろう。
「ええ、また」
 航太郎もそう返してマンションに向かって歩き出す。
 が、
「そうだ、航太郎」
 数メートルと進まないうちに再び志麻に呼び止められた。振り返ると、志麻がせかせかと道を引き返してくる。
「お姉さんからプレゼント」
 そう言って志麻がびしっと突きつけてきたのは一枚の小さなお札だった。それを見て、この人は本当に神社の娘なんだな、などと少しずれた感想が浮かんでしまった。
「お守りみたいなもの。鞄でも服でもいいから、邪魔にならないところに入れて持っててくれると嬉しいかな」
 お札に描き込まれた意味不明の文様をしげしげと眺め、裏返したり街灯に透かしたりしていると、志麻は苦笑いを浮かべて言った。
「大丈夫だって。変な呪いなんてかけちゃいないから。そこんとこはもうちょっとお姉さんを信用して欲しいな」
 変な呪いがかかっていたらどんな目に遭うのか気になるところではあるが、決して疑っているわけではない。ただ、どうしてそんなものを自くれるのか不思議に思っただけだ。自分はそんなに危険な立場にいるのだろうか。
「とは言っても、練習で作った簡易的なものだから過信はしないでちょうだい。今度、もっとちゃんとしたのを作ってきてあげるから。それまではそれで我慢しといて」
 強引に押しつけてくる志麻の勢いに押され、航太郎は曖昧にお礼の言葉を口にしながらお札を受け取った。
「じゃ、今度こそバイバイ。夜遊びするんじゃないわよ」
 そう言って志麻は慌ただしくスーパーへ向かう道を駆けていった。
「はあ……帰るか」
 もう一度、志麻に手渡されたお札を表裏と眺めてから、一応丁重にポケットにしまい込んで歩き出した。

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