第5章  見つめるもの(後編)


「……っ! お嬢様!」
 涼子は驚愕に見開かれた目で航太郎の背後を凝視している。
 航太郎がゆっくりと後ろを振り返ると、航太郎が見たことのない険しい顔つきの和水が立っていた。顔が上気しているように見えるのは怒りのせいだろうか。
「学校ではそう呼ばないようお願いしたはずです」
 静かに諭すような声さえも噴火の一歩手前のように感じるから不思議だ。大人しい人ほど怒らせると怖いとはよく言ったものだ。
 一転して顔面蒼白の涼子が慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。和水様」
「できれば『様』もおやめいただきたいのだけれど……」
「……」
 ぽつりと呟いた和水の言葉に、涼子は無言で応えた。それをどう受け取ったのかはわからないが、和水は小さく溜息をついて航太郎の脇を通り抜けて涼子の前に出た。
「……それで、航太郎さんに何を仰ったのですか?」
 航太郎に背を向けているため表情までは見て取れないが、詰問する和水の口調は今までに聞いたことのないものだった。
 しかし。
「出過ぎた真似を致しましたことにはお詫び申し上げます。ですが、この者に関わるのはおやめください!」
 涼子は逆に開き直ったのか、航太郎に人差し指を突きつけながら和水に訴えかけ始めた。
「このような、どこの馬の骨とも鹿の骨ともわからないような男に関わっているとろくなことがありません。ええ、決まってます。それに普段クラスで一緒にいるのも人騒がせな者ばかりではありませんか」
「私のお友達を悪く言うのはおやめなさい」
 和水の口調が厳しさを増した。
「いいえ、失礼ながら言わせていただきます。まさかとは思いますが、万が一この者がお……」
「涼子さん!」
 とうとう声を荒げて遮った。さすがの涼子も驚きを隠せない。和水の後ろ姿を見つめる航太郎も正直、開いた口が塞がらなかった。ここまで感情を露わにした和水は見たことがなかった。
「……言葉が過ぎました。お許しください」
 涼子は心底申し訳なさそうに深々と頭を下げると、
「失礼いたします」
 そう言って和水と航太郎の脇を走り抜けて去っていった。
 唐突に引き下がっていった涼子の姿を目で追って振り返った和水が、航太郎を見て深い溜息をついた。
「大変お見苦しいところをお目にかけてしまいました」
「いや……僕は別に」
 自分が悪く言われているのはわかったけれど、それほど気にしてもいない。
「あのさ、聞いていいことなのかどうかわからないけど……」
「はい、どうぞ」
「室見さんって……和水さんの家のメイドさんだったりする?」
「メイド……でございますか? お手伝いさんのことを仰っているのでしたら少し違います。昔から当家で働いてくださっていたご夫婦の娘さんでして、そのご夫婦が亡くなった後もお預かりしているのです。今では家事全般を取り仕切ってくださっていますが」
 なるほど、和水が台所に立てない原因も彼女なのだろう。学食の件で一悶着あったというのも、それなら納得できる。
「何だか、かなり嫌われてるみたいだよね、僕」
 ついでに咲季や橋本も、と心の中で付け加えた。
「これまで私には学校に友人がほとんどいなかったものですから。それで涼子さんは少し戸惑っているだけだと思うのですが」
 苦笑しながら和水が答えた。
 人付き合いの少なかった主人(?)に友達ができた場合、普通は喜ぶものではないだろうか。
 ……まあ、おそらく航太郎に対してはそれ以上の関係を疑っているのだろう。「お嬢様に変な虫がついた」くらいに思われているのは間違いない。
「それに……涼子さんは勘のいい方ですから、薄々気づいていらっしゃるのかもしれません」
「何に?」
「航太郎さんのことです」
 どこの馬の骨とまで言っておいて何に気づいているというのか。……まあ、普通に考えれば航太郎の素性なのだろうけれど。
「……だから、和水さんの友達としてふさわしくないと?」
「そんなことを申したのですか? それはご無礼を……」
「いや、面と向かってそう言われたわけじゃないんだけどね」
 それに近いことは言っていたような気がする。
「……私が悪いのです。私に力が足りなかったから」
 不意にそう告げる和水の声は思いの外に曇っていた。
 航太郎は戸惑った。話のつながりがまったく見えない。どうして和水が責任を感じなければならないのか。
 今回の件は、室見涼子が和水の意志を無視して航太郎に不当な言いがかりをつけてきただけの話だ。それについては、初対面の女の子に何を言われたって従うつもりはない。今後もあの凶悪な視線に晒され続けるのかもしれないが、正体がわかってしまえば可愛いものだ。
 むしろ、和水が怒ってくれたこと、航太郎たちをはっきり友達と呼んでくれたことに感動を覚えていたくらいだ。だから、今日のことは気にしていない。気にするつもりはない。
 だと言うのに、その当人は表情を曇らせて自分を責めている。
 室見涼子は何故航太郎たちを和水から遠ざけようとしたのか。その原因が和水にあるのなら、それは彼女がこれまで人との関わりを避けてきたことと関係があるのだろうか。
 そして、その原因を尋ねるのは許されることなのだろうか。
「……航太郎さん?」
 考え事をしているうちにいつの間にか険しい顔になっていたのだろう。和水がやや不安げな面持ちで航太郎の様子を窺っていた。
「あ、ごめん」
 和水のことを考えていたはずなのに、そのせいで余計な気を遣わせては本末転倒だ。和水は言い出しにくそうに口を何度か小さく動かした後、申し訳なさそうに切り出した。
「あの……勝手なことを申しますが、涼子さんのことを嫌わないでいただけませんか」
「え?」
「悪い方ではないのです。その……少々頑固で思い込みが激しい部分はありますが、普段はとてもよくしてくださるんですよ。私などよりずっとしっかりなさっていて、お料理もとてもお上手ですし。それに……」
 続く言葉が先に頭の中を駆け回ったのか、和水は不意に言い淀んで赤くなった。
「その……航太郎さんも涼子さんも私の大切なお友達ですから。仲違いしていただきたくはないのです」
 そのように言われては航太郎だって嫌とは言えない。そもそも初対面の印象が強烈だったとは言え、嫌うほどには室見涼子に関する情報を持っていない。
「わかったよ。和水さんには助けてもらったしね。どっちかと言うと室見さんのほうが僕を嫌ってる感じだから、和気藹々と話すなんてのは難しいと思うけど」
 それでも和水はほっとした表情で胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
 和水は顔を上げて微笑んだ。折からの午後の日差しに照らされ、鮮やかな陰影が浮かび上がった和水の笑顔は、見る者を魅了する美しさで溢れていた。
「私も涼子さんに心配をかけてばかりではいけません。今度こそ必ずお守りします」
 その毅然とした美しさに見とれていた航太郎には、和水の言葉の意味を問う余裕などなかった。


 翌日、天神航太郎はいつも通りの時間に登校し、昇降口から校舎に上がった。この学校は、校舎内では基本的に土足で、靴を脱ぐのは音楽室や家庭科室など一部の特別教室に限られる。転校当初は少し戸惑ったが、慣れてしまえばこちらのほうが楽だった。教室や廊下で転びでもすれば目も当てられないことになるし、掃除が多少面倒ではある。しかし、そんなのは高校生にもなって不満に思うほどの短所ではない。
 昇降口を抜けるとすぐ脇に階段がある。ゆっくりとその階段に差しかかったところで背後に敵意に満ちた視線を感じた。
「天神航太郎」
 ごくごく最近、例えば昨日辺りに聞いたような声にフルネームで呼び捨てにされ、やっぱりかと溜息をつきながら振り返った。
 予感的中。そこには見覚えたばかりのおかっぱ頭の少女がじろりと航太郎を睨んでいた。
「や、やあ、室見さん、おはよう」
 和水との約束も頭にあったので、航太郎は引きつりそうな口の端を何とか押さえつつなるべく好意的に朝の挨拶を試みた。
 そんな様子を見て、あからさまに顔をしかめた涼子だったが、渋々といった感じで、
「……おはようございます」
 そう挨拶を返してきた。
「和水さんとは一緒じゃないの?」
 下手な愛想笑いを浮かべながら尋ねると、涼子はむすっと顔を曇らせて言い放った。
「あなたには関係ないわ」
 好意の欠片も感じられない口ぶりはいっそ清々しい。
 思い返せば、和水と涼子が一緒にいるのを見たことがない。昨日の和水の話を言葉通りに解釈すると涼子は和水の家に住んでいるはずなのだが、一緒に登校したりはしないのだろうか。
「で、今度はお嬢様に何を吹き込んだのかしら?」
 航太郎のささやかな疑問に答えをくれるつもりはまったくないらしい。航太郎に対してだけかもしれないが、とことんマイペースだ。
「何のこと?」
「惚けないで。今まで料理などしたことのなかったお嬢様が料理の特訓を始めるなどと仰ったわ。おおかた、あなたが何か余計なことを言ったのでしょう?」
 余計なこととは失礼な。だいたい、今まで料理をしなかったのではなくて、できなかっただけだから。おもに君のせいで。
 航太郎はそう言ってやりたい衝動に駆られたが、和水のためと思い直して堪えた。その辺り、妙に律儀なところがあるのだ。
 確かに、昨日の帰り道に和水と料理のことについて話をした。
 和水の毎日の弁当が涼子の手製であるところから始まり、いつも作ってもらってばかりでは悪いから自分も料理を覚えてたまには作りたいと和水が言ったので、航太郎も和水の作った料理を食べてみたい、と乗ってみたのだ。
 そうか、それで。自分の言葉が直接のきっかけかはわからないが、それでも後押しくらいになったのなら嬉しい限りだ。和水は不器用なわけではないから、ある程度の料理はすぐに覚えるだろう。和水の手料理を頂く機会だって得られるかもしれない。
「ニヤニヤして気持ち悪いわね。鼻の下伸ばしちゃって」
「は、鼻の下って……」
 そんなににやけた顔になっていたのか。
 思わず両手を自分の顔に当てて確かめる航太郎など気にする様子もなく、涼子は溜息をついて呟いた。
「お嬢様は私の料理に飽きてしまわれたのかしら。今まで不満を仰ったことなどなかったのに……」
「いや、和水さんは料理上手だって褒めてたよ。飽きたとかそういうのじゃなくてさ、自分も料理をしたいだけだと思うからさ」
「あなたの意見は聞いてない」
 さすがに航太郎もカチンときた。和水からは仲違いして欲しくないとは言われたが、ちょっとばかり言い返すくらいなら構わないだろう。
「だったら僕に何の用があって声かけたわけ? いいじゃないか、料理くらいさせてあげれば」
 航太郎が苛立たしげに言い返すと、涼子の目つきに鋭さが増した。
「お黙りなさい。主(あるじ)を厨房に立たせるなど使用人の名折れです」
「だから。和水さんは室見さんを使用人だなんて思ってないって。友達だって言ってたし、むしろ家族みたいなものなんじゃないの?」
「私は和水お嬢様にお仕えする身です。友人などと畏れ多い。ましてや家族などと……」
「そんなこと言ったって、いつまでも側にいるわけにはいかないだろ。和水さんだって料理くらい自分でできたほうがいいって」
「いいえ、私は一生お嬢様にお仕えする所存です」
 ここまで来ると呆れを通り越して感心してしまう。この盲信ぶりなら、航太郎たちを遠ざけたくなるのもわかる。もちろん納得はできないが。どうやら和水と涼子ではお互いの認識にかなり差があるようだ。
「はあ……。室見さんってほんと頑固だよね。和水さんが言ってた通りだ」
「何ですって!」
 涼子の顔がみるみる怒りで赤くなり、ずいっと航太郎に詰め寄ってくる。
「はいはい、二人ともストップ」
 不意にショートカットの女生徒が間に入り、紛争真っ最中の航太郎と涼子を引き分けた。
「……志麻様」
 涼子が呟いた。学年章から上級生とわかるその女生徒は、どうやら涼子の知り合いらしかった。「様」という敬称をつけているということは、藤崎家の人間だろうか。
「ったく、朝っぱらから何エキサイトしてんのさ。涼子ちゃんらしくないね」
 志麻という名前らしい上級生が、涼子に向かってそう言った。嗜めるというよりからかっているように聞こえるのはフランクな口調のせいだろう。
「べ、別に興奮してなど……」
「してたよ。いつもの冷静な涼子ちゃんはどこに行っちゃったのかなあ。いっそのこと、涼子なんて名前はやめて『温子(あつこ)』とかに改名しちゃうのはどう?」
「……お戯れはおやめください」
「ええー、いいじゃん。涼子ちゃんが男の子と口論してるなんて、こんな面白い場面は放っておけないもの。でも、やるなら屋上とか体育館の裏みたいな目立たない所でやったほうがいいよ。朝のこの時間にこんな場所だと変な噂が立っちゃうよ」
 志麻がニヤニヤ笑いながらそう言って、わざとらしく周囲を見回した。つられて涼子と航太郎もぐるりと頭を回す。昇降口や階段の踊り場、奥の渡り廊下などから遠巻きに三人の様子を眺めている生徒がちらちらと見受けられた。幸いにして和水や咲季など、航太郎の顔見知りの姿は見当たらないようだ。
「……っ!」
 いつの間にか衆人環視になっていたことに気づき、恥ずかしさで顔から火が出そうな涼子。同じく気がつかなかった航太郎が乾いた笑みを漏らすと、それを見咎めるようにギロリと睨みつけてきた。
「この屈辱、絶対に忘れはしません」
 そう言い捨てると、涼子は志麻に向かって「ではまた」と頭を下げ、ばたばたと足音も高く階段を駆け上がっていった。
 えー、僕のせいなの? 航太郎は理不尽なものを感じながらげんなりした顔でその後ろ姿を見送った。
 涼子が立ち去った後、志麻が喜々とした表情を浮かべて矛先を航太郎に移した。
「で、涼子ちゃんがあそこまでムキになる君は、噂の鬼の少年だね」
 背中にナイフを押しつけられたような戦慄が走った。
「う、噂……?」
 そんな噂があるとは知らなかった。鬼というのは実は傍目にもわかりやすい存在なのか。咲季や橋本も知らないふりをしているだけなのだろうか。都会では鬼はむしろ溶け込みやすいと聞いた気がするのだが、その認識は間違っていたのか。
 目を白黒させている航太郎を見て、志麻は満足げに笑い出した。
「あははは、冗談だよ。そんな噂なんてどこにもないって。たいていの奴にゃ人間と鬼の区別なんてつかないさ」
 が、航太郎が鬼だとわかっている志麻は当然「たいていの奴」の範疇からは外れるわけであって……。
 航太郎は無意識的に後ずさっていた。その様子を見て志麻が小さく溜息をつく。
「あのさ、君が何て言われて育ったか知らないけど、正体がばれたくらいでそんなに怖がることはないって。別に君を殺そうなんて思っちゃいないよ。あたしも、もちろん和水もね」
 そうして軽くウィンクしてみせる志麻だったが、不意に「あ」と声を上げた。
「自己紹介がまだだったね。あたしは二年の赤坂志麻っての。よろしくね。和水とは古い知り合い。一応、遠い親戚なんだけど、江戸時代まで遡らないと家系図が繋がらないんだよね。君はえっと……」
「天神航太郎です」
「ああ、そうだった。和水から聞いたんだけど忘れちゃってね」
 人の名前を覚えるのは苦手なんだ、そう言って舌を出して笑う志麻の表情には屈託がなく、表裏のある人間には見えなかった。
「和水もそうだけど、涼子ちゃんとも仲良くしてあげてよ。ケンカ友達で構わないからさ。あの子があそこまで感情的になるのはすごく珍しいんだ。普段は落ち着いた子なんだよ」
 志麻はそう言うが、不機嫌そうな顔と怒っている顔しか見たことのない航太郎にしてみれば情緒不安定な要注意人物としか思えない。
「あははは、君が警戒したくなるのも無理ないけどね。あの子、見ての通りで徹底した和水至上主義者だからさ。あたしはもちろん藤崎の小父様にだってどうしようもないわね、こればっかりは」
 困った顔をしている航太郎がおかしかったのだろう、志麻はけらけら笑いながらそんなことを言った。
「はあ……」
 和水至上主義者、ねえ。言い得て妙だ。
「っと、あたし今日日直だったんだ。続きは歩きながらでもいいかな」
 航太郎だってずっとここに留まる理由はない。軽く首肯して階段を上り始める。
「あのさ、航太郎」
 別れ際に志麻が呼び止めた。会ったばかりだというのにいきなり呼び捨てだった。
「一つだけ約束して」
「な、何でしょうか?」
「死んじゃダメだよ」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。だが、そんなことはお構いなしに志麻は続ける。
「そのためにも和水の忠告には従うように。それさえ守ってくれれば、お姉さんから言うことは何もないからさ」
 それだけ言うと、「じゃ、今後ともよろしく」と言って二年生の教室へ向かう階段を上って行ってしまった。
「どういう意味だよ?」
 後に残された航太郎の問いかけに答える者はいなかった。

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