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天神航太郎は休日も早起きだ。
天神家は地元ではそれなりの影響力を持つ旧家だったせいか、昔ながらのしきたりが根強く残っていた。朝食を家族揃って取るのもその一つだ。年齢の上下に関わらず一番早く出かける人間に合わせて朝食の時間が設定された。しかも航太郎の父は旅行代理店勤務で土日は出勤日だったため、平日と変わらない時間に朝食となる。
天神家当主たる祖父はこうしたしきたりには人一倍強いこだわりを持っていた。普段は決して厳格な人物ではなく、跡取りである長男、すなわち航太郎の父の転勤にも苦言一つ口にせずに送り出してくれたものだが。
引っ越してきてから両親は朝食の時間にはこだわらなくなったが、それでも休日の朝食を何となく早い時間に揃って済ませるのは変わらなかった。やはり長年の間に染みついた習慣はそうそう抜けないのだろう。
そんなわけで、いつものように朝食を取った後、咲季たちとの待ち合わせの十時までは十分過ぎるほどの時間が残った。
少しひんやりし始めた朝の風を部屋に通しながら、航太郎はぼんやりと昔のことを思い出していた。
小学生の頃だったら今の時間にはもう外へ遊びに出ていた。同じ家に住んでいた一歳下の従弟、同い年の双子の姉弟、それに二つ年上の少年が近所で同年代の子供たちで、このメンバーで山のあちこちを駆け回ったものだった。
そこまで思い出して、航太郎は何かを忘れているような気がした。本当にそれで全員だっただろうか? 時折、年に数回程度だが、誰かもう一人加わることがなかっただろうか。
しばらく一生懸命になって記憶を辿ってみたが、どうしても思い出せなかった。やはり航太郎の思い違いだったのだろうか。
「そう言えば、アニキは今どこにいるんだろうな……」
思い出せない記憶の代わりに、航太郎は別のことに思考を巡らせることにした。
アニキというのは遊び友達だった二つ年上の少年のことで、箱崎旅人(はこざきたびと)という名前だった。何がきっかけだったのか忘れてしまったが、双子の弟が最年長のその少年を「アニキ」と呼んだのがそのまま定着してしまったのだ。旅人自身、家では年の離れた三人兄弟の末っ子だったので、年下の少年少女からそう呼ばれるのが嬉しかったらしく、やめろとは言わなかった。
そのアニキは、二年半ほど前に突然いなくなってしまった。一家が引っ越してしまったわけではない。自転車を三十分こいだ先の地元の高校に進学したばかりでもあった。
航太郎たちはアニキの父親に尋ねてみたが、小父さんは頭を掻いて笑いながら、
「旅人なんて名前をつけたからね。本当に旅に出てしまったんだ」
などと言葉を濁すだけだった。
航太郎たちは釈然としないものがあったが、箱崎家がやはりその地域の旧家だったこともあって、遠くの進学校に急遽転校することにでもなったのではないかと考えることにした。ずいぶん不自然な時期ではあったけれど。
「おっと、もうこんな時間か」
何気なく時計を見て立ち上がった。思いの外に長時間考え込んでいたらしい。
待ち合わせの十時まではまだ三十分ほど時間があったが、少し早めに行っておくことにしよう。
校門に着いてもまだ誰も来ていなかった。しかし、時間まではまだ二十分ほどある。
航太郎は落胆するでもなく門柱に寄りかかって待つことにした。仰ぎ見れば、「天高く……」という形容がぴったりの突き抜けるような青空が広がっている。本来は外敵の襲来を警戒する言葉らしいが、現代日本ではそんな故事など他人事でしかない。航太郎の場合、和水に限らず鬼斬りの襲撃を受けるおそれがなきに
しもあらずだったが、休日の昼間に大通りに面したこんな場所で凶行に及ぶこともあるまい。
それにしても、今朝はどうしてあんなことを思い出したのだろうか。あのメンバーで遊び回った子供の頃のことなどずっと忘れていた。
もしかしたら故郷を離れ、彼らとも別れたことで知らず心細くなっていたのかもしれない。まだそれほど日が経ってもいないというのに情けない話だ。
航太郎は何気なくポケットの中の携帯電話を取り出して電話帳を開いた。そこには従弟、双子の祇園(ぎおん)姉弟、そして今では繋がらなくなってしまったアニキの番号も登録されていた。
「航太郎さん」
儚げに響く独特の声音が考え事の最中に聞こえてきても、今度は驚いたりしなかった。最初からここに来ることがわかっていたわけだし、時間的にもそうおかしくはない。声をかけられただけで飛び上がるのでは失礼にも程があるではないか。
しかし、視線を空から地面に下ろしたところで航太郎の動きが止まった。いつもより若干はにかみ気味に微笑む和水は、白いブラウスに黒のタックフレアスカートという服装だった。長い黒髪は首の位置で束ねられ、濃い紫のリボンが飾られている。航太郎が暮らしていた田舎でも見たことのないクラシックなお嬢様スタイルがよく似合っている。
「おはようございます」
和水が楚々と挨拶をするが、航太郎はその姿にさえ見とれてしまって言葉にならなかった。
「あの……私の格好、おかしいでしょうか」
その言葉にはっと我に返ると、和水が不安げに航太郎の顔を見つめていた。航太郎の沈黙を別の意味に捉えたようだ。航太郎を首をぶんぶんと横に振った。
「ううん、そうじゃなくて、あんまり似合っていたものだから……」
やっぱりこうなってしまうのか、あっさりと取り乱してしまった自分を少しだけ恥じながらそう答えると、和水も赤くなって恥ずかしそうに俯いてしまった。
これはヤバイ。航太郎の思考は熱でふやけてしまいそうだった。初めて見る和水の私服姿はそれほどの破壊力を持っていた。ちなみに、初めて会った時の羽織袴姿はノーカウントとしておく。
もう、他の三人なんて放っておいてこのまま和水と二人で……。
「そうね、私たちは別行動でも構わないわよ」
「のわあっ!」
耳元でのんびりした声が聞こえて飛び上がった。
「おはよう、藤崎さんと天神君」
頭に赤のベレー帽を乗っけた中洲桂子が手を振りながら笑っている。神出鬼没は相変わらずだ。いつもと同じはずのニコニコ顔が、ニヤリとほくそ笑んでいるように見えたのは気のせいとして済ませてしまっていいだろうか。
「ダメ、却下! 私は和水ちゃんと一緒がいいの」
「きゃっ!」
澄み渡る青空をそのまま写し取ったような清涼な声に和水の短い悲鳴が続いた。
例によって咲季が後ろから和水を抱きすくめていた。武道に通じているはずの和水がどうしてこうも簡単に後ろを取られてしまうのか、それが不思議だった。
もしかしたら咲季には何かしらの特殊能力が備わっているのかもしれない。例えば、女の子にセクハラする時だけに発動するステルス能力。……使えない能力だ。
「朝からいい雰囲気作っちゃって。お姉さん、妬いちゃうんだから。和水ちゃん、航太郎君の見た目に騙されちゃダメよ。ああいう顔はきっと何か隠してるに決まってるわ」
咲季は和水の首筋に噛みつくかキスでもするのかというほど顔を近づけて囁いた。少女が二人絡み合っている姿は健康的な男子としては目の毒なのだが、それは置いておいて、咲季は航太郎に何か恨みでもあるのだろうか。
そもそも、何か隠しているのはむしろ和水のほうであって、外見に騙されているかどうかはともかく、クラクラ参っているのは航太郎のほうではないか。
「気にしないで、天神君。咲季ちゃんはただヤキモチ焼いてるだけだから」
ふわふわの笑顔で桂子が言った。さっきの第一声と言い、このコはテレパシストなのか? それとも航太郎の表情がわかりやすいだけなのだろうか。
「それにしても、今日はまた一段と可愛いわね。リボンなんて付けちゃって」
そう言いながら和水の髪を束ねる紫リボンをくいくいと引っ張っている咲季はボーダーのTシャツの上からターコイズブルーのカーディガンを羽織り、デニムのジーンズを履いた、ややボーイッシュな出で立ちだった。
尚、航太郎の傍らに立っている桂子の服装は薄いピンクのワンピース。ハイウェストのベルトは赤いリボンで、頭の上のベレー帽とお揃いの色だった。小柄な体型と相まって、どことなくファンシーだ。
「咲季ちゃん、そのくらいにしたら? しつこいと嫌われちゃうわよ」
桂子が緊張感の欠片もない声でゆっくり言うと、
「う、それは困るわね」
咲季はあっさりと和水を解放した。その割に、頬を染めたままリボンを直している和水に未練たらたらという感じでちらちら見ているが、やがて溜息を一つついて腕時計を見ながら言った。
「そろそろ十時だしね……って、橋本君ったらまだ来てないじゃない。もう、いつまで経っても時間にルーズなんだから。一回くらい本気で置き去りにするべきよね」
咲季の口調に次第に苛立ちが表れ始めた。咲季が橋本一人名指しで遅れるなと釘を刺したのは正しかったようだ。もっとも、それでも来ていないのだから咲季が怒るのも致し方ない。
航太郎は、この後現れるであろう橋本が誰もいない校門で寂しく佇むことがないように、話を振って時間を稼いでおくことにした。
「そう言えばさ、咲季ちゃんと中洲さんは一緒に来たみたいだったけど、家が近いの?」
「あれ、言ってなかったっけ? 私たちの家、隣同士なのよ」
初耳だ。昔からの親友とは言っていたと思うが、そこまで近いとは聞いていない。
「咲季ちゃんと私は幼馴染みなの」
幼馴染み。その言葉を聞いて、今朝思い出した故郷のことが再び脳裏にちらついた。今日はどうも子供の頃の思い出に縁があるらしい。
「桂子ったらね、のんびりしてるから私が急かさないといつも遅刻しそうになるのよ」
「咲季ちゃんは大袈裟なの。いつも急がなくても十分間に合うのに」
珍しく桂子が頬を膨らませた。どうやら朝だけは普段とパワーバランスが異なるらしい。ちょうど、航太郎の知っている双子の姉弟がそんなやり取りをしていたことを思い出して笑いがこぼれた。
しかし、咲季はそれを違う意味で取ったようだ。
「あ、桂子の名誉のために言っておくと、朝が弱いわけじゃないのよ。ただ、起きてからが長いのよね、この子は」
すると、突然桂子がぽつりと呟いた。
「来たみたい」
桂子が見ている方角に目を向けると、何かが土煙を上げて突っ走ってくる。それは猛スピードで近づいてくる自転車だった。航太郎の視力二・五の両眼には、自転車を漕ぐ眼鏡の少年の鬼気迫る表情までもがはっきりと見えていた。
やがて、校門前にたどり着いた自転車は、甲高いブレーキ音にタイヤと地面の摩擦音をミックスしながら、百八十度旋回して門柱すれすれで停止した。
「いやあ、ギリギリセーフってとこか」
「悠々アウトよ」
咲季が額に青筋が浮かんでいそうな声でぴしゃりと言った。時計の針は十時を五分ほど回っている。
「固いこと言うなよ。みんなまだここにいるんだからセーフでいいだろ」
にへらっと笑いながら橋本が言うと、咲季の表情と声が引きつった。
「橋本君には反省ってものがないのかしら? お望みなら次からは遠慮なく置き去りにするわよ」
「げ、それは勘弁。……遅れて悪かったよ。でもさ、今日遅れたのには理由があってだな」
「聞かせてもらおうかしら?」
冷ややかな声で咲季が問うと、橋本は頭を掻きながらためらいがちに答えた。
「えと……自転車に乗り遅れた」
「……」
季節外れの北風が駆け抜ける。桂子は「ああやっちゃった」と言わんばかりに肩を竦めてしまったし、咲季は肩を震わせながら一歩ずつ橋本に近寄っていく。なけなしの野性で危機を察知した小動物は、己の運命に抗おうとじりじり後ずさっていく。緊張感が辺りに満ちた。
「くすっ……ふふふ」
我慢の限界といった様子で和水が吹き出した。何とか堪えようとしているようだが、それが逆におかしくて堪らないというのを全身で表現している。
咲季は握りしめた拳もそのままにぽかんと和水を見つめた。橋本も気まずそうにきょろきょろと頭を動かしていた。桂子は何故か楽しそうだ。
やがて、一同の視線が自分に注がれていることに気づいた和水は真っ赤になってぺこぺこと頭を下げ始めた。
「も、申し訳ございません! 橋本さんのお言葉が面白かったものでつい……」
「はあ……もういいわ。時間もないし、早いとこ映画館に移動しましょ」
咲季も毒を抜かれてしまったようで、溜息を吐き出しながら言った。
「そうそう。映画が始まっちまうしな」
橋本がいつもの軽口を叩くと、咲季はぎろりと睨みつけ、普段よりオクターブ近く低い声で言った。
「みんなに飲み物奢り。わかったらその自転車三十秒で置いてきなさい!」
「りょ、了解!」
橋本は素早く挙手の礼を決めると、再び土煙を上げて駐輪場に走り去っていった。
映画館はこの都市の中心地区にあるとのことだった。航太郎は咲季たちの後について地下鉄に乗り、十分ほどでその地区に到着した。地上に出ると、デパートやオフィスビルの建ち並ぶ繁華街だった。学校の周辺とは大きく趣を異にし、航太郎が生まれ育った町にはない賑やかな場所だった。
「橋本君の奢りはお昼の時間にするとして、ひとまず映画館に向かうわよ」
橋本の遅刻は最初から想定の範囲内だったらしく、それほど急がなくても上映開始には十分間に合う時間だったが、ゆっくりお茶を飲んでいる暇まではないようだ。
咲季の先導でアーケード街を抜けると、七階に映画館の入っているデパートにたどり着いた。
桂子が観たかった映画というのはフランス映画だった。物語は第二次世界大戦初期、ある男を殺してしまった女優の罪を被ることになった作家志望の青年はパリ陥落のどさくさに紛れて成り行きで脱獄。女優たちが逃れたボルドーへ向かう。そこに脱獄の首謀者や科学者の助手を務める女学生、女優の愛人となった大
臣、更にはナチスのスパイなどが加わり、それぞれが時代に翻弄されていく。
恋愛映画のようでもあり、コメディでもあり、ほんの少しのアクション要素もありと、やや忙しい印象の映画で目が離せなかった。隣の席の和水も食い入るようにスクリーンを見つめているようだった。初めて映画館で観る映画は、どうやら彼女にとっては当たりだったようで、航太郎は何故だかほっとしていた。
映画のラストは映画館の場面だった。そこで主人公の青年はヒロインとキスをする。そういうシーンに慣れていないのか、隣ではっと息を飲む音がかすかに聞こえた。反射的に航太郎はそちらへ視線を向けた。偶然に目が合った。数秒の間、二人はその場で固まっていたが、同時に顔を背けて前を向いた。流れ始めてい
たエンドクレジットそっちのけで顔を伏せる。隣の和水も同じ行動を取っているらしい気配があった。
強引に二人を隣り合わせに座らせた咲季を、航太郎はほんの少しだけ恨んだ。
「面白かったわね」
場内が明るくなると、咲季が座席から立ち上がって伸びをしながら言った。
「うん、満足満足」
桂子はいつも以上にふわふわな声で今にもとろけそうだ。きっと表情も同じようなものなのだろう。
「細かいとこはよくわかんなかったけど、面白かったな」
と橋本。
そんな中、航太郎は心臓をばくばく言わせながらほうっと佇んでいた。
そんな航太郎の様子を見て、咲季がにやりとほくそ笑んだ。からかい甲斐のある獲物発見、といったところか。
「どうしたの? 顔が赤くなってるわよ。あ、さては最後のシーンで何か変な妄想してたんでしょ」
びくりと肩を震わせる航太郎。しかし、過剰な反応を示したのは航太郎だけではなかった。
「あれ、和水ちゃんもなの?」
咲季が少し戸惑い気味に尋ねた。
「え? ……あ」
どうやら、さっきの言葉が自分に向けられたものではなかったことにようやく気がついたらしい。和水の赤い顔がますます赤くなる。
「もしかして二人で映画と同じことをしてたのかしら?」
「いやいやいや、してない! してないから!」
右手を高速で横に振って航太郎が咲季の問いを否定する。
「ムキになるところが怪しいよな」
咲季と橋本の好奇の目を見て、抗弁すればするほど自分の首を絞める結果になるのがよくわかった。二人とも事実はともかくとして、航太郎と和水をからかって遊んでいるだけなのだ。
いつも通り静かに微笑んでいる桂子にSOSの視線を送るが、ふわふわと微笑んでいるばかりで助けに入ってくれそうにはなかった。
隣では和水が困って顔を伏せている。
仕方がないか、航太郎は覚悟を決めた。
すっと立ち上がると、和水に小さく一言。
「ちょっとごめん」
そして和水の右手を掴み、少々強引に引っ張って立ち上がらせた。そのまま和水の手を引いて駆け出す。
後ろから咲季と桂子の歓声が飛んでくる。
「あ、こら、待ちやがれ!」
追いかけてくる橋本の声も妙に楽しそうだった。
出口に向かって走りながら、しっかりと握り返してくる和水の手は熱かった。
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