第3章  日常の風景


 独り相撲のような波乱の幕開けとなった航太郎の新しい生活だったが、その後は呆気ないくらいに落ち着きを取り戻していった。
 と言ってしまうと少々語弊があるかもしれない。咲季や橋本のおかげでいやが上にも賑やかになるわけで、航太郎や和水はそれに巻き込まれてあたふたすること頻(しき)りだったからだ。しかし、それは航太郎の和水に対する親近感を高めることにもつながった。
 学校での和水の姿を見るにつけ、当初の自分の態度が、被害妄想に他ならないのではないかとつくづく思えてくる。鬼のことを知っているからと言って鬼斬りとは限らないのではないか、などと以前の思考と見事に矛盾することさえ考え始めている辺りは、航太郎の単純、もとい素朴な性格の表れと言えるだろう。
 そんなわけで割と普通の学校生活を楽しめるようになった航太郎だったが、このメンバーで行動することが多くなるにつれて色々なことがわかってきた。
 咲季と橋本がクラスのムードメーカーになっていることは最初の数日で察していたことで、二人とも絵に描いたように活発な少年少女だった。ただ、ことスポーツになると咲季はあまり得意ではないようで、その点は橋本と対照的だった。
 更に、初対面時に咲季から釘を刺されていた通り、咲季も橋本も勉強は苦手。宿題や予習は基本的に桂子頼みだった。これに関しては航太郎も笑ってはいる場合ではなさそうだ。元々大して勉強が得意ではない上に、今まで通っていた田舎の学校とは授業の進み具合もかなり違うとわかったからだ。
 桂子はどの科目もバランスよくできた。咲季や橋本のバカ騒ぎにいつも付き合っているにも関わらず学年トップテン以内の成績はキープしているという。
 あまり自分から発言することは少ない桂子だが、時折鋭いツッコミを入れて咲季や橋本を一撃で仕留めることがしばしばだった。だから内気なわけではないのだろうと思っていたが、咲季の話ではのんびりし過ぎて会話に加わるタイミングが掴めないだけらしい。思っていることをずばずばと言い始めたらどれだけ教室を恐怖のどん底に突き落とすかわからないから、今くらいでちょうどいいとも言っていた。
 咲季と桂子はかなり昔からの親友らしいが、そこに橋本が加わったのは意外にも高校に入って同じクラスになってからとのことだった。きっかけは入学式から一週間も経たないうちに些細なことで咲季と橋本に起きたケンカだという。クラスを騒然とさせたそのケンカを鎮めたのはやはり桂子で、あっさりと両者をダブルノックアウトしてしまったらしい。もちろん言葉で。以来、桂子はクラスの影の支配者として密かに恐れられている、とは橋本の弁だ。
 そして、和水についても様々なことがわかってきた。
 体育の時間にも見た通り運動神経は女子の中では群を抜いている。男子の中に入っても遜色ないのではとさえ思えるほどだ。咲季の話ではどんな競技でも活躍しているらしいから弱点らしい弱点はない、かと思えば実は泳げないと本人が言っていた。
 授業科目としては理数系が苦手とのことだった。もっとも、苦手と言ってもテストでは平均はしっかりクリアしているため、たいていの教科が当落線ぎりぎりをさまよっている咲季や橋本とはわけが違う。
 得意科目は国語。ハイネがドイツ文学であることを知らないなどの偏りはあるものの、とりわけ古文と漢文では他の追随を許さない。さすが、『源氏物語』が愛読書と言うだけのことはある。古語のネイティブなのではないかと錯覚するほど滑らかに詠うようにテキストを読み上げるその声は、教師が止めるのを忘れて聞き入るほどに流麗だった。
 意外だったのは料理ができないということだった。それでも調理実習ではずいぶんと嬉しそうにしていて、聞けば家では台所に立たせてくれないのだと言う。家ではいわゆる箱入り娘なのかもしれない。ただ、包丁さばきだけは妙に鮮やかで、航太郎の背中をほんの少し冷たい汗が流れたのは秘密だ。
 また、クラスに入ってきたばかりの航太郎には実感がないのだが、和水のクラスでの立ち位置も少しずつ変わってきているようだ。以前は咲季でさえ話しかけにくい雰囲気を持っていたというのがまったく想像できない。まさかクラスの全員が鬼で、航太郎と同じように怖がっていたというわけでもあるまいに。
 何がきっかけだったかわからないが、五人で昼食を取っている時にその話題になったことがある。
「もちろん怖いわけじゃなかったのよ。ただ、休み時間になると黙々と本を読んでるし、昼も独りでお弁当食べてるでしょ。それに見ての通りの美人で、いかにもいいとこのお嬢さんって感じじゃない? 男の子だけじゃなくて女の子から見ても高嶺の花だったんじゃないかな」
 咲季が本人を前にしてそう言うと、和水は困ったような照れているような顔をして
「では、クラスの方に気を遣わせてしまっていたのですね。それは大変申し訳ないことを致しました」
 と頭を下げた。
「その言葉遣いも距離を感じさせる原因なのかもしれないわよね」
「も、申し訳ございません。決してそのようなつもりでは……」
「ううん、別に責めてるわけじゃないのよ。和水ちゃんが一番慣れてる話し方をすればいいと思うし、私は和水ちゃんのその口調、好きだしね」
 咲季はこともなげにそう言ってブロッコリーを口に放り込んだ。
「それに男子は男子で牽制し合ってたみたいだぜ。真っ正面から話しかける度胸がないもんだから互いに足を引っ張り合うんだよ。くだらねえ」
 購買で買ってきたチョコクリームパンを囓りながら橋本が言った。いつものニヒルな笑みを浮かべているが、机の上に並んでいるのが揃いも揃ってチョコパンで、更に飲み物が紙パックのココアという念の入りようではどうにも格好がつかない。見ているだけで胸焼けしそうだ。
「そのくだらない中に橋本君も入ってんじゃないの?」
 咲季が意地悪そうに尋ねる。
「バッ、俺は違うって。ほら、咲季や中洲の相手すんのでいっぱいいっぱいなんだよ」
「私の相手したこと、あったかしら?」
 桂子が玉子焼きを箸で切り分けながら、スクランブルエッグのようにふわふわの笑顔で言った。うぐっとチョコパンを喉に詰まらせ、咽せながらココアのストローを口に含む橋本。
「な、ないってこたないだろ。そりゃ、確かに咲季と口ゲンカしてることが多かったとは思うが」
「口ゲンカねえ」
 と桂子。さっきとまったく変わらない笑顔なのだが、心なしか目だけがニヤニヤと嗜虐的に輝いているような気がしたのは、きっと気のせいではないのだろう。
「今は俺の話なんてどうだっていいだろ」
「別に和水ちゃんの話題で縛ってるわけじゃないから、橋本君の話でも構わないんだけど。でも、そうね、そんなに面白い話でもなさそうだし、やめときましょ」
 咲季がいつも通りの明るくきれいな声でさらっと言うと、橋本がずんと落ち込んだ。ここまで軽く流されるといっそ清々しいくらいなのだが、本人としてはやはり辛いものがあるようだ。
 ともかく、航太郎が転校してくる以前の和水はそんな調子だったらしい。
 今でも和水が話しかける相手は航太郎と咲季くらいだったが、クラスメートは少しずつ和水に話しかけるようになっていた。和水弄りにすっかり味を占めた咲季が加速度的にその頻度を増したことも寄与しているだろう。真っ赤になって慌てふためく和水の姿が人目に触れる機会が増えたため、それまでの近寄りがたい 印象が薄まっていったのだ。それに、咲季の交友が広かったのも要因の一つかもしれない。
 学校では橋本や桂子も含めた五人で行動していることが多かったが、昼休みには航太郎と和水の二人が教室に残っていることも少なくなかった。他の三人は学食に行ってしまうことが多かったからだ。一方の和水は常に弁当で、航太郎の知る限りでは食堂で食べたりパンを買ってきたりしたことは一度もなかった。航太 郎もたいていは弁当持参だったから、自然と二人並んで弁当を食べることになるのだ。
 転校当初は毎日どこかへ退避して弁当かと頭を悩ませた航太郎だったが、今となってはすっかりとその状態にも慣れてしまった。たいていは昼休みの教室の喧噪から取り残されたような静かな昼食だった。二人ともそれほどおしゃべりというわけでもないので、時折ぽつぽつと会話を交わす程度だったのだ。
 時には咲季と桂子が弁当を持ってくることもあり、そんな時は橋本が購買でパンを買ってきて賑やかなランチになった。
 和水の弁当は漆塗りの品のいい弁当箱に収まった、見るからに和風の品々だった。周知の通り和水は料理ができないのだから、きっと母親の料理なのだろう。もしかしたらお手伝いさんがいて弁当も作っているのかもしれない。時々和水に勧められるままにおかずを二、三点頂戴するのだが、期待に違わない純和風の味 付けの逸品揃いだった。
 そんなある日のことだった。いつものように三人が学食に行ってしまった後の教室でのんびりと昼食を取っていると、隣で同じように弁当を食べていた和水が不意に言った。
「航太郎さん、明日はお弁当をお持ちにならないでいただけますか?」
 無防備に炒めウィンナーを齧っていた航太郎は、もごもごと咀嚼しながら今の言葉の意味を考えた。弁当を持ってくるな、だって? それって、つまり……。
「んぐっ、ぐぐっ……!」
 驚きのあまり口の中のウィンナーを中途半端な状態で嚥下してしまい、派手に咽せてしまった。
「こ、航太郎さん!?」
 和水が慌てて水筒から注いだお茶を差し出してきた。どうにかそれを受け取ってぐいっと流し込む。
「ごほっ! ごほっ!」
 涙目になりながら喉のつかえを取った航太郎は、やや恨みがましい視線を和水に向けた。
「和水さん、急に何を言い出すんだよ?」
 完全に逆恨み、と言うかかなり失礼なセリフである。
「え? あ、も、申し訳ございません。やはり急に言われても無理でございますよね」
 どうやら和水は航太郎の言葉を取り違えているようだった。
「いや、弁当なしにするのは全然問題ないんだけど」
 むしろ母は喜びそうだ。ちなみに航太郎には早起きして弁当作るほどの根性も腕もない。
「ただ、ほら。和水さんって料理は、その……」
 できないよね、とは言えなかった。今までは単に経験がなかっただけというのが意見が主流だし、もしかしたらただいま特訓中なのかもしれないではないか。
 しかし、当の和水はきょとんと首を傾げた。やがて航太郎の言葉の意味を理解したのか、みるみる真っ赤になって首を横に振った。
「ち、違います! 左様なことを致しますにはまだ修業が足りませぬゆえ……いえ、そうではなくて」
「なくて?」
 珍しく歯切れの悪い和水の後を促すように尋ねると、和水は大事な話を切り出すかのように口を結び、それから再度開いた。
「ただ、一度食堂に参りたいと思いまして。できれば皆様でご一緒にと思いまして」
 どんな話が出てくるのかと緊張していた航太郎は、和水には悪いけれど拍子抜けした。と同時に、ああ、そういうことか、航太郎は納得した。和水は航太郎が独り教室に取り残されるのを気にしたようだ。相変わらず変なところで律儀な和水だった。


「和水ちゃんって学食初めてなんだぁ。確かに見かけたことなかったわね」
 咲季が感嘆の声を漏らした。
「天神なんて転校初日から学食だったのにな」
 弁当忘れてさ、と付け加えて橋本がニヒヒと笑った。そんなに前のことではないにせよ、どうでもいいことを覚えている男だ。
「まずあの券売機で食券を買うのよ」
 咲季の世話焼き精神に火がついたのか、和水の肩を抱き寄せるように引いて行列から体半分はみ出させ、列の前方を指さして言った。
 言うまでもなく、今は食堂で昼食を取るべく券売機の列に並んでいる真っ最中である。まだ食堂の中にすら入れていない。
「入り口にガラスケースがあるでしょ。あれが見本。よく見て何を食べるのか先に決めておくのよ」
 そんなことまで言わなくても、と思うようなことまで説明する咲季だったが、和水は緊張の面持ちで頷きながら聞いていた。正直、学食でここま真剣な顔をしている人を見たのは初めてだった。
「でもいいの? せっかくいつも立派なお弁当作ってくれてんのに学食なんてさ。家の人泣いてなかった?」
 橋本は橋本で大袈裟な心配をしている。昼休みの学食は親不孝者の巣窟なのか? そもそも、和水の両親を泣かせるほどの学食を愛用している橋本はどうなのだと問い詰めてみたい航太郎だった。
「いえ、そのようなことは。少々、揉めはいたしましたが……」
 揉めたんだ……。和水以外の四人は表情こそばらばらだったが、一様にそんなことを考えたに違いない。
「……!」
 突然鋭い視線を受けたような気がして航太郎は列の後方を振り返った。
「天神君?」
 意外と目ざとい桂子が航太郎の不審な動きに反応した。
「あ、ごめん。誰かに睨まれた気がして」
「またかよ。お前、最近多いよな。自意識過剰なんじゃねえか?」
 橋本が呆れ気味に言った。確かに最近よく視線を感じるのだが、橋本が言うような熱い視線ではなく、むしろ背筋が凍りそうな冷たいものだった。
 中でも今回はいつもよりも強烈だった。敵意を露わにした刺すような視線。殺意というほどではないと思うが、好意的なものでないのは確かだった。例えば、和水を本気で恐れていた初期だって、そんな種類の視線は一度たりとも感じたことがなかった。
「和水ちゃんの隠れファンじゃない? 俺の和水に近寄るなって感じ?」
 そう言って咲季がニヤニヤ笑う。それは立派なストーカーだ。
「ま、刺されないように気をつけるこった」
 両手を首の後ろに組み、まるで他人事のように橋本が言った。
「和水さんの近くにいる男っていうなら橋本だってそうだろ」
 抗議の声を上げるも、橋本はひらひらと右手を振って受け流した。
「俺は違うってわかってんじゃねえか、直感的にさ」
 直感的に何がわかっているのかと問い質したいところだが、橋本のこういう発言こそ直感的なものなのだからまっとうな返事は期待できまい。
 もう一度後ろを振り返ってみたが、敵意を持って航太郎を睨みつけている人物など見当たらなかった。もっとも、この人混みの中に隠れてしまうことは造作もないことだろう。
 やがて航太郎たちの番が回ってきてそれぞれ硬貨を投じて思い思いの食券を購入していく。和水は赤いランプの点った券売機の前でかすかに戸惑いを見せたが、すぐに日替わり定食のボタンを押した。今日の日替わりはほっけの開き定食のようだ。こういう場所に来ても和水の和食好きは変わらないらしい。
「普段のお弁当もそうだけど、和水ちゃんって結構食べるほうよね。それでよくその体型を維持できるわ」
 感心半分、羨望半分といった調子だった。かく言う咲季の手に握られているのは天ぷらそば単品の食券のみ。航太郎や橋本に言わせるとむしろそれで足りるのかと言いたくなるくらいだった。咲季はイメージの割に食が細い。消費エネルギーを考えれば橋本と同じくらいは食べなければ栄養的に赤字になりそうなもの だ。
「きちんと食べておかなければ、十分に体を動かせませんので」
 和水が恥ずかしそうに言った。女の子である以上、まるで大食いのように言われるのはやっぱり嫌なのだろう。
「和水ちゃん、何かスポーツやってるの? 部活には入ってなかったよね?」
「スポーツと申しますか、武道を少々」
 武道という言葉を聞いて航太郎の心臓が軽く跳ねた。その際のかすかな表情の変化を見て取ったのか、和水はほんのわずかに表情を曇らせた。
「そうなんだ。何をやってるの?」
 咲季が尋ねると、和水は航太郎をためらいがちにちらちらと見ていたが、咲季の興味津々な視線を受け、観念して答えた。
「……薙刀、でございます」
 航太郎の様子をちらちらと窺っているように見えるのは、あの晩のことは黙っておいて欲しいということだろうか。心配しなくても、話したところで他のメンバーには信じてもらえまい。そんなことをこの場で口にしないだけの分別はあるつもりだ。
「へえーっ、かっこいいなあ。だから和水ちゃんってあんなに運動神経がいいんだ。和水ちゃんって日本人っぽいから道着とか似合いそうだもんねえ」
 咲季はすっかりはしゃいでいる。きっと頭の中で道着姿で薙刀を構えている和水の姿を想像しているのだろう。確かによく似合っていると思う。侍のような和装も恐ろしいほど似合っていた。
「咲季ちゃん、藤崎さんは現に日本人なんだから、『日本人っぽい』は変よ」
 桂子がゆっくりと咲季の言葉にツッコミを入れた。
「い、いいじゃない。純和風の美人って意味よ。それくらい察してよね!」
 頬を膨らませてそう言った後、咲季はなおも和水をじろじろと見ながら溜息をついた。
「薙刀かあ。私にもできるかなあ……」
 どこまで本気なのかわからないが、それ以前に何が動機だろうか。
「咲季ちゃんにはきっと無理」
「だよなあ。どう考えても体力が追いつかないって」
 容赦なくコンボを浴びせる桂子と橋本。まあ、和水が通っている道場であれば相当に厳しい場所だろうから、確かに咲季では体力的に厳しいものがあるだろう。そもそも、こう言っては悪いが表に出ている道場なのだろうか。
「そ、そのようなことはございませんよ。精神の鍛錬にもなりますし」
 どよんと落ち込んでしまった咲季を和水がフォローするが、咲季はじっとりとした目で橋本と桂子を見やって言った。
「やめとくわ。私が薙刀なんて始めたら、あの二人、お腹が裂けるまで笑ってくれそうだし。あ、でも試合があったら教えてね。和水ちゃんの勇姿、見てみたいから」
 泣いたカラスが何とやら、と言わんばかりの勢いでぱっと表情を輝かせる咲季。
 しかし、逆に和水は困ったように顔を曇らせた。
「試合でございますか。あまりそういったものには参加いたしませんので」
「そっか、残念」
 その辺りで、航太郎たちより前に並んでいた生徒たちが捌けたようだった。それぞれに食券を提示していく。
「じゃ、先に行って場所取っとくわ」
 大盛りのカツ丼を盆に乗せて、橋本が歩き去っていった。次いで、咲季、桂子も順に注文の品を受け取ってテーブルへ向かった。
 後ろに順番待ちの生徒を従えてその場に残されたのは航太郎と和水の二人だった。
 薙刀の話を聞いたせいか、航太郎は和水にかける言葉を思いつかなかった。和水もまた、喧噪の只中の沈黙を破る術を見つけきれずにいた。


「ねえ、今度の日曜日、映画観に行かない?」
 唐突だった。あまりの唐突ぶりに航太郎は言うに及ばず和水と橋本も呆気に取られ、言い出した張本人を呆然と見ていた。その咲季は、プラスチックの湯飲みに注がれたお茶を静かに啜っている。
 からんと音がして橋本の手から箸が滑り落ちた。
「そ、そそそ、それはデートのお誘いかっ!? よーし、わかった。行こう、今すぐ行こう!二人っきりで映画館にっ!」
 ……違うと思うぞ、航太郎は心の中で溜息をついた。こう、妄想が先走り気味な辺り、どうも橋本とはキャラクターが被っているような気がして仕方がない。
「あははは、違う違う。そんなわけないでしょ。みんなで行こうって言ってるの。だいたい、日曜日って言ってるでしょ。人の話はちゃんと聞こうね」
 身も蓋もないセリフで橋本の勘違いを高らかに笑い飛ばす咲季。
「橋本君、大丈夫? お肉に病原体プリオンでも入ってた?」
 トドメはやはり桂子だった。購買で買ってきたプリンをおいしそうに食べている姿はなかなかに愛らしいし、ビジュアルそのままのふわふわな声なのに、どうしてここまで殺傷力の高い言葉が出てくるのだろうか。
「で、映画の話なんだけどね、桂子が観に行きたい映画があるんだって。別に二人で行ってもよかったんだけど、せっかくだからみんな一緒のほうが楽しそうでしょ。航太郎君もまだそういう場所は知らないだろうしね」
 咲季と桂子のツープラトン攻撃にノックアウトされて橋本が沈む姿はもはや日常茶飯事となっていたこともあり、航太郎と和水の二人も平然と話を続ける咲季の提案に耳を傾けていた。
「映画かあ。この街ってそういうのたくさんありそうだもんね。前住んでた所にはなかったからなあ、映画館」
 航太郎がぽつりと感慨深げに漏らすと、咲季は目を丸くして驚いた。
「え、そうなの?」
 航太郎は苦笑する。この街にずっと住んでいると、映画館のない町というのが想像できないのかもしれない。
「うん、小さい町だったから。僕が住んでたのはその更に町外れの村って感じの所だったけどね。学校も買い物も全部町まで行かないといけないから大変だよ。自転車で三十分くらいかかるし、バスも二時間に一本くらいしか来ないし」
「そっか、それは大変だね」
「その分、小さい頃の遊び場には苦労しなかったし、星もきれいに見えるし、いい所だよ」
 こんなこと言っても都会に僻(ひが)んでるようにしか聞こえないかもしれないけれど、航太郎は苦笑と共にそう付け加えた。
「で、映画はどうなの?」
 桂子がのんびりと口を挟んで話を引き戻した。
「ああ、ごめん。僕はオッケーだよ。ついでに案内をお願いしたいくらいだし」
 休日にこのメンバーで出かけるというのも楽しそうだ。航太郎が快諾すると、和水もすぐに承諾の意を示した。
「私もぜひご一緒させてください」
 それを聞いて咲季は桂子に顔を向けてVサインと共にウィンクしてみせた。
「そういうことで決まりね」
「ええ、楽しみ」
 桂子も咲季にVサインを返しながら答えた。咲季の思いつきで誘われたように思っていたが、そうでもなかったようだ。
「でも、橋本の都合は聞かなくていいの?」
「いいのいいの、こんなイベントに橋本君が来ないわけないんだから。最初から数に入ってるわよ」
 咲季が事も無げに言って苦笑すると、どんより沈んでいた橋本は突然勢いよく起き上がって叫んだ。
「おうよ、俺だけ除け者にしようったってそうはいかないぜ」
 誰も除け者にしようなんて言っていないんだけど……。航太郎は改めて心の中で溜息をついた。
「あ、でも和水ちゃん、おうちの人は大丈夫なの?」
「はい、何のことでしょうか?」
 きょとんと首を傾げて和水が聞き返した。
「映画観に行くことよ。学食を認めてもらうのにも一悶着あったんでしょ。また面倒なことになったりしない?」
 咲季の説明を聞いてようやく合点がいったように両手を軽く合わせる和水。咲季も心配のし過ぎだとは思っているのだが、和水の物腰を見ているとそういう厳しい家でもおかしくない気がしてくるのだ。
「そのことでしたら、心配はご無用でございます。左様に厳しい家ではございませんので」
「そうなんだ」
 咲季は少し拍子抜けしたように呟いた。
「食堂に来ることよりも、お弁当が不要と申しましたところで少々揉めまして。どうしてもお弁当を作ると言って聞かなかったものですから」
 和水が困ったように頬に手を当てて首を傾げた。普段弁当を作っているのが和水の母親なのか藤崎家のお手伝いさんなのか知らないが、かなり頑固な性格のようだ。
「そういうことなら問題ないわね。じゃあ今度の日曜日、十時に……そうね、校門の前に集合。橋本君、遅れてきたら置いてくからね」
 咲季がさっさと集合場所と時間を取りまとめてしまうと、一人だけ釘を刺された橋本が食ってかかっていつもの掛け合い漫才が始まり、航太郎は和水と顔を見合わせて笑い合った。
 一瞬、航太郎は再び刺すような視線を背後に感じたが、日曜日のことが楽しみだったこともあって、さきほどのようには気に止めなかった。
 もしもそこで振り返っていたら、今度こそ視線の主を突き止めることができたかもしれない。昼休みの終わりが近づくその時間、背後の空間にはそれほど多くの生徒が残っているわけではなかったから。

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