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水道の蛇口を豪快に捻り、顔をざばざばと洗う。ひんやりとした水がバスケで火照った体をクールダウンしてくれる。暑い時期はとうに過ぎて快適な気候と言えるのだが、体を動かした後には汗もかくし体温も上がる。
「お前さあ、タオルくらい持ってこいよな。水も滴るったって限度ってものがあるだろ」
顔を濡らした水を流れるに任せ、ぼたぼたと体操服に染み込ませている航太郎を見て、橋本が呆れ顔で言った。
「仕方ないだろ。思ったより暑かったんだよ。前に住んでた所じゃ今の時期はもう寒いくらいなんだから」
今まで寒暖の差の激しい内陸の地方に住んでいた航太郎の感覚では、この時期にそんな必要があるとは思わなかったのだ。この街は北に面した海を流れる暖流の影響なのか、この時期でも意外と気温が下がらなかった。
「住む場所が変わるとそんなもんなのかね」
「わかったら、そのタオル貸してくれ」
航太郎が右手を差し出して頼むが、
「やなこった。何が悲しゅうて野郎にタオルを貸さにゃならんのだ」
橋本は素っ気なくそう言った。
「何だよ、じゃあ女の子だったら貸すのかよ?」
「当然だろ」
……当然なのか。つくづく思考がわかりやすい男だ。
と、差し出したままの右手にふわりとタオルが掛けられた。シンプルな藤色のタオルだったが、よく手入れされた柔らかい手触りだった。
「よろしければお使いください」」
いつの間に現れたのか、藤崎和水がふわふわと微笑んでいた。
何も言えずにじっと和水の顔を見ている航太郎の様子に、和水は疑問符が浮かびそうな表情で小首を傾げていたが、やがて何かに気がついたようにはっとした顔に変わり、ポニーテールを縛っていたゴムを外して髪を下ろした。
それから、困ったような表情を浮かべて言った。
「申し訳ございません。体育の時は動きやすいようにまとめていまして」
「そんなに慌てて下ろさなくても、似合ってたと思うけど。な、天神?」
「え? あ、う、うん」
航太郎が曖昧に頷くと、和水の表情が和らいだ。
「左様でございますか。航太郎さんはあの髪型がお気に召さないのではないかと思いまして」
暗に初対面の時のことを言っているのだろう。航太郎に気を遣っているのだろうか。
「そんなことないよ。確かに、今の髪型のほうがいいと思うけどさ」
航太郎がそう言うと、橋本はひゅっと短く口笛を鳴らして、
「俺は先に戻るわ。二人とも、授業に遅れんなよ」
そのまま昇降口から校舎へと消えていった。
後に残された二人は少しの間呆気に取られて立ち尽くしていたが、先に再起動したのは和水のほうだった。
「あの、先ほどのお言葉なのですが……」
さっきの言葉? 航太郎はその意味するところを突き止めるべく記憶を辿った。と言っても、たった今のことなのでさして時間はかからない。かからないのだが……。
「あ……」
思わず絶句した。自分の口走ったセリフのこっぱずかしさを、今になってようやく理解した。そりゃ、橋本も気を遣って消えるわけだ。
加えて、向かい合っている和水が言い淀んだままうっすらと頬を染めていたりするものだから、航太郎の心拍は若き日のカラヤンもびっくりの壮絶なアッチェレランドを奏で始める。
逃げるか? いや、それは死亡エンドまっしぐらの最悪の選択だ。腕のほどは定かでないが、相手が現代に生きる武士であることを忘れてはいけない。
航太郎は、本能の赴くままに口に出してしまったことを恨めしく思った。普段そんなことをしでかすタイプではないのに、どうしてこんな時に限って。もちろん、嘘をついたわけではないから、後ろめたく感じる必要などはまったくないのだが、正直に本心だと言ってしまうのはますます恥ずかしいではないか。
かといって、航太郎の言葉を待っているであろう和水を前に、永遠に黙り続けるわけにも行かない。何か言わなくては。
「た……」
ぴくりと和水の肩がかすかに震えた。その姿は、畏怖というフィルターのかかった航太郎の目にも普通の女の子にしか見えなかった。
「タオル、ありがとう。遠慮なく使わせてもらうよ」
今更だった。あまりの間の悪さに言った航太郎本人が穴を掘って隠れてしまいたい気持ちになったほどだ。申し訳程度にタオルで顔を拭うが、体操服も含めて既に秋風が乾かしてしまっていた。
しかし。
「い、いえ、そんな。お役に立てて光栄に存じます」
意外にも正解だったようだ。やはりそこは人付き合いが少ないらしいお嬢様。こうして男と向かい合うのには慣れていないのかもしれない。
「……」
「……」
ただし、それは航太郎も同じだった。女の子は苦手じゃない。今までにも女の子と二人きりで行動することはそう珍しくなかった。それでも、こういう雰囲気になったことは一度としてない。気まずいのとも違う曖昧な空間。何か言わなくてはと思いながらも、言うべき言葉を思いつかない。どうして、自分は彼女とそんな空間を生み出しているのだろうか。最も関わり合いになりたくなかったはずのこの少女と。
誰でもいいから助けて。神様には見放されたばかりだから、この際悪魔でもいいです。
そう航太郎が願った時だった。
「あれれ、二人とも顔真っ赤にして何見つめ合ってんの? いい雰囲気なのは結構だけど、時と場所を考えてよね。着替える時間なくなっちゃうわよ」
「きゃっ」
ノリの軽い声が聞こえたかと思うと、あろうことか後ろから和水に抱きついていた。やけに可愛らしい悲鳴は和水のものである。
「きゃっ、だって。藤崎さん意外と可愛い声出るんじゃない。決めた! これからは和水ちゃんって呼ぶわね。いいでしょ? いいって言うまで離さないんだから」
「あ、あの、構いませんから、その……きゃっ」
咲季に弄ばれている和水は普段の落ち着きがどこへ消えたのかというくらいにあたふたと取り乱していた。恥ずかしそうに上気した頬は、何というか、航太郎には少々目の毒だ。助けが入ったのはありがたかったが、悪魔は悪魔でも小悪魔だったらしい。
「咲季ちゃん、それくらいにしてあげないと藤崎さんかわいそうよ」
これまたいつの間に現れたのか、絡み合う二人の隣に立っていた桂子がいつもののんびりした口調で言った。正直、何の抑止力にもなりそうにない。
「だって、和水ちゃんがあんまり可愛かったもんだもの。ホント、航太郎君ってまれに見る逸材よね。あの『藤崎さん』にあんな顔させるなんてねえ」
褒められているのか? 全然そんな気はしない複雑な思いの航太郎だった。
「ま、いいわ。ともかく、このまま更衣室までレッツゴー! ほらほら、航太郎君も急がないと。男の子は教室しか着替える場所がないんだから」
和水を抱きすくめたまま天使のラッパのような突き抜ける声でそう言うと、咲季はそのままの体勢で歩き出した。桂子もてくてくとその横をついて行く。
「え、あの、ちょっと……。こ、航太郎さん、また後ほど」
授業中の活躍ぶりが嘘のようにじたばたともがきながら、和水が連れ去られていく。
和水ちゃん、後で何するつもりなの? いえ、そういう意味では……。そういう意味ってどういう意味かしら。
賑やかな声が遠ざかっていくのを航太郎はぽつんと眺めていた。
その様子をひっそりと見つめる影があったことに、その時の航太郎はまったく気がつかなかった。
教室に戻った航太郎は、橋本に冷やかされながらも何とかクラスの女子たちが戻ってくる前に着替えを済ますことができた。
やがて、航太郎弄りにも飽きた橋本がどこかへ出て行ってしまった後、手元に残った藤色のタオルを眺めながらぼんやりと考える。
結局、藤崎和水という少女は何者なんだろうか。
月夜に羽織袴で薙刀装備。航太郎の出自を見抜いているかのような発言。女子高校生の標準スペックを大きく上回る身体能力。そして、古風で洗練された言葉遣いと物腰。
これだけの条件が揃っていて、航太郎たち鬼と何の関係もない普通の人間だということが考えられるだろうか。後の二つはともかくとして、前の二つの事実は偶然にしてはでき過ぎている。
「それに、確かに言ったんだよなあ。『鬼』って」
初めて会った晩のことだった。それは取りも直さず、和水にとって鬼が現実的な存在だという証拠ではないか。今の世の中、鬼を実在するものとして認識している人間が鬼斬りの他にいるだろうか。
ただ、あの晩に和水が口にした「鬼」という単語が、航太郎を指したものではないような気もするのだ。
昨日の別れ際の言葉も、警告というよりは忠告といった感じに受け取れた。何か他の危険があって、航太郎をそこから遠ざけようとしているようにも感じられたのだ。
「もう、何が何だか」
机に突っ伏して深い溜息をつく。
「あの……」
「はい?」
気怠げに返事をして、首だけをくるりと回す。セーラー服のスカートと、その下にすらりと伸びる色白の足が視界に入った。更に首を回転させ、セーラー服の上半身へと視線を滑らせる。
つい今し方まで考えていた少女が、困惑顔で立っていた。思考に倦んだ頭が状況を理解するまで多少の時間が必要だった。
「ごっ、ごめん!」
慌てて起き上がり、びゅんっと音が出そうな勢いで回れ右。口を挟む暇を与えずに早口でまくし立てた。
「あ、えと、ええっと、貸してもらったタオルだけど、洗って返すから。明日でいいかな?」
「いえ、そのようなお気遣いには及びません」
一方の和水もさっきの一件が尾を引いているのか、言葉こそ乱れていないものの、どこかそわそわした落ち着きのない態度だった。見上げた時の困惑は、航太郎の醜態を目にしてしまったためだけではないようだ。
「そういうわけにはいかないよ。こういうことはちゃんとしなきゃ」
「いえ、それでは却ってご迷惑をかけてしまいます」
「迷惑だなんてそんな。僕は貸してもらったほうなんだし」
「ですが、私が勝手に押しつけたようなものです」
お互いに冷静さを欠いていたせいか、こんな応酬が更に何往復か続いたが、不意に和水が笑い出した。
「ふふ、航太郎さんは思いの外に頑固な方ですね」
「それを言うなら藤崎さんだって……」
航太郎は笑われたことに対して恨みがましく言いながらも、実際には一緒になって笑っていた。
いつも柔らかい微笑を湛えている和水だが、控えめながら声を立てて笑うのを見るのは初めてだった。そんな表情を見せられて、航太郎の心臓が大きく跳ねる。
やがて和水は観念したかのように小さく息をついた。
「参りました。では、そのタオルは後日お返しいただくことに致しましょう。いつでも構いませんので、ご都合のよい時に」
それからくすりと微笑んで続けた。
「あるいは、そのような物でよろしければ、そのままお使いいただいても結構です」
「そ、そう? じゃあ、しばらく借りておこうかな」
咄嗟にそう返答してしまったのは、そのいたずらっぽい表情に目を奪われてしまったからだった。和水がこのような顔をできるとは思っていなかったのだ。
実際、タオルを借りることになったのも単に用意していなかったのが理由なのだから、わざわざ借り続ける必然性などないはずなのだ。ましてや貸し主は畏怖の対象であるはずの少女というのだから尚更だった。
それだけ、彼女に対する印象がわずか一日でがらりと変わってしまったということだ。落ち着いて考えれば、あの夜の出来事は強烈なインパクトを持っていたけれど、それ以外に恐怖を抱かせるような言動があったわけでもないのだ。
航太郎の正体、というか出自を知っていることは疑いようのないことだが、それでもイコール暗殺者と考えるのは早計なのではないか。あの姿を見る限り、何かと戦っていることは確かだし、あの運動神経の良さはそのためのものだと思う。しかし、それが航太郎たちを抹殺するためのものだとは、今の和水を見る限り
ではどうしても考えることができなかった。
完全に信用してしまうのはまだ早いかもしれないけれど、もう少し様子を見ることにしよう、それが航太郎の出した、答えというには少々心許ない考えだった。
「二人だけの秘密のお話は済んだかしら?」
背後からそんな声が聞こえる。和水はびくりと肩を震わせ、機敏な動作で左に身をよじった。それがおかしかったのか、すっかりお馴染みとなった鈴の音のような笑い声が教室の一隅を満たした。
「やあね、さすがに教室ではあんなことしないわよ。だって和水ちゃんったら反応が大袈裟なんだもの。人前でやっちゃったら、私が変な人だと思われるじゃない」
「自覚はあったのね」
「ちょっと、桂子! どういう意味よ」
「どういう意味かしら?」
質問に質問で返す桂子の表情はどこまでもぽややんとしていて戦意を削がれることこの上ない。
「まったく、誤解を招くようなこと言わないでよね」
さすがの咲季もこれには適わないらしい。抗議の声にもどことなく力がない。
二人のやり取りの間、完全に置き去りにされていた航太郎と和水を見て、咲季が手を合わせて苦笑した。
「ごめんごめん。桂子が変なこと言うもんだから。和水ちゃん、さっきはごめんね。ほら、二人があんまり仲良さそうに話してるから、ついヤキモチ焼いちゃってね」
「ヤキモチ……でございますか」
傍で見ている航太郎から見れば、咲季の口調は本気かどうか限りなく疑わしいものだったが、和水は秘密を打ち明けられて困ったとでもいった様子で黙り込んでしまった。
「もう、和水ちゃんったら可愛い! 冗談よ、冗談。ホント、航太郎君のことになるといい顔するんだから」
追い打ちをかけられて真っ赤になって俯く和水の表情は見ている航太郎まで赤面してしまいそうな可憐なもので、咲季のテンションが上がるのもむべなるかなというものだった。もしも咲季の言う通り、その原因の一端でも航太郎にあるのだとすれば、それはそれで悪い気がしないのだから現金なものである。
そんな具合で引っ越しの日以来の緊張感もすっかり抜け、航太郎の顔も緩む。
しかし。
「……?」
ほんの一瞬だったが、教室の戸口付近から強い視線を感じた。はっと目を向けるが、休み時間終了直前で行き交う生徒たちがいるだけだった。教室の隅で話をしている航太郎たちを気にかける者もいない。むしろ、咲季たちが現れた直後のほうがクラスメートの視線にさらされていたように思う。咲季が教室を賑やかにするのは今に始まったことではないらしいが、その中に藤崎和水が加わっているのだからクラスにとってはちょっとした驚きだったようだ。
「航太郎君?」
咲季に問いかけられて我に返る。三人とも訝しげに航太郎を見ていた。和水にはかすかだが心配するような色もある。
「ごめん。誰かに睨まれた気がして」
「そう不思議でもないんじゃない? 航太郎君、バスケの活躍でちょっとした有名人だから」
そうなのだろうか。そういう種類の視線ではなかった気がするのだが。
「れれ、どうしたんだ?」
ちょうど戻ってきた橋本が不思議そうに尋ねた。
「橋本君の逆恨みじゃないでしょうね」
「何の話だよ?」
それも違う、航太郎はそう直感し、教師が入ってくるまで続く咲季と橋本の掛け合い漫才をぼんやりと眺めていた。隣の席でクスクスと控えめに笑う和水の姿を視界にしっかりと収めたままで。
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