第2章  五里霧中(前編)


 天神航太郎は引き続き寝不足の頭を悶々と悩ませていた。斬り殺される悪夢を見なくて済んだ分、昨日よりはマシになったし、実際、最低限の睡眠時間は確保できた。
 それでも。
「航太郎さん、か」
 昨日の別れ際、和水に突然そう呼ばれたのは青天の霹靂だった。それは目撃証人である川端咲季にとっても同じだったらしい。図書館を出るなり興奮気味に航太郎の肩を何度も叩いたものだった。小突くというよりどつくに近いそのアクションが彼女の受けた衝撃をよく表していた。
 別れ道まで一緒に歩く途上でも咲季は何やら勢い込んで力説を続けていた。
 曰く、あの藤崎和水が自分から声をかけたのみならず、その日に知り合ったばかりの男子生徒を、いや、性別とか期間云々に関係なくクラスメートを名前で呼ぶなど信じられないと。
 それについては彼女と出会って間もない航太郎もまったくの同感だった。咲季からいきなり名前で呼ぶようにと言われたことさえ、ありがたいながらも驚きだったのに、和水はそういった前置きをすべてすっ飛ばして当たり前のように航太郎を名前で呼んだ。
 いったいどういうつもりなのだろう? 航太郎などただの獲物でしかないはずなのに。
『私が名前で呼んでたから対抗意識を燃やしたんじゃない?』
とは咲季の弁だが、それこそ和水の柄ではない気がした。だいたい理由がない。
「やっぱりただの気まぐれなのかなあ……」
「おいおい、朝っぱらからそんな不快指数の上がりそうな湿気たツラすんなよな」
「わああっ!」
 いつの間にか目の前に縁なし眼鏡が現れてジト目で航太郎を見つめていた。
「つくづく反応の面白い奴だな」
 橋本はニヒルな笑みを浮かべつつニヒルとは程遠い口調でそう言った。ここまで言動が不一致するとある意味器用なのではと思う。
「ほっといてくれ! 考え事をしていただけだよ」
 そっぽを向いて窓の外の景色に視線を移す。校門から校舎へ続く道が目に入った。
「どうせ藤崎の攻略法でも考えてたんだろ?」
「バッ、そんなんじゃないよ」
 思わず橋本のほうを振り返って声を上げると、橋本はにやーっと笑ってわざとらしく窓の外に目を向けた。そして不意に一点を指さした。
「あ、藤崎!」
 いくら航太郎でもそんな手には乗らない。むすっと不機嫌な顔のまま、橋本の指が示す先とは別の景色を見続けた。
「私がどうか致しましたか?」
 そんな声が聞こえて航太郎だけでなく橋本もぎょっと飛び上がった。
 振り返ると、話題の藤崎和水が両手で鞄をちょこんと抱え、小首を傾げて立っていた。
「よ、よう、藤崎。今朝は早いな」
 橋本が両手をあたふたと振り回しながら取り繕おうと必死になっている。そういう姿を見ると、小柄な外見と相まって小動物を連想させる。ハムスター……というほど可愛げのあるものでもないが、リスくらいならリスに対しても失礼に当たらないのではないか。本人が喜ぶかはわからないが。
「左様でございますか? いつも通りの時間だと思うのですが……」
 橋本の精一杯のごまかしも和水の訝しげな表情を強める結果にしかならなかったようだ。
 確かに登校時間としては決して早いわけでもない。昨日、航太郎が校門で和水にあったのも概ねこのくらいの時間だったはずだ。
 しかし、細かいことを気にしない大らかな性格なのか、深く追及するのが面倒だったのか、和水はふわりと微笑んで小さくお辞儀をした。
「おはようございます。航太郎さん、橋本さん」
「……おはよう」
 やっぱりその呼び名は教室でも続くのか。そう思いながらも挨拶を返しておく。
「ああ、おはよう……って、ええ!?」
 難を逃れた安堵感にほっとしながら同じく挨拶を返す橋本だったが、昨日の咲季同様の驚愕に満ちた表情で航太郎と和水を交互に指さし始めた。
「天神、ちょっと来い!」
 橋本はそう言って航太郎を席から引き離し、小声で問い詰める。
「いったい何があったんだよ? あの藤崎が名前で呼ぶなんて。俺には天変地異の前触れとしか思えねえ」
 ずいぶん失礼な言い方だが、昨日の咲季の驚きぶりを思い返しても、さほど大げさな物言いではない気もする。その天変地異がクラスメートの失踪だったりしないことを願いたい。もちろん航太郎のことだ。
「知らないよ。昨日図書館でいきなりそう呼ばれたんだから」
「お前なあ、そんなので納得すると思ってんのか? だいたいだな……」
「朝からこそこそ何やってんのよ」
 呆れたような声が溜息と一緒に降ってきた。顔を上げると呆れ顔の咲季だった。
「おう、川端、ちょうどいいところに来た。大変なんだ。実はだな……」
「橋本君、朝から何エキサイトしてんのよ。あ、おはよう、航太郎君」
 飛びかからんばかりの橋本を静かに受け流しつつ、咲季が言った。途端に橋本が真っ白になって固まる。
「咲季ちゃん、おはよう」
 その何気ない航太郎の返事が橋本に追い打ちをかけた。
「川端、お前もか! なんで天神ばっかり!」
「人徳の差じゃないかしら」
「ぬおっ!」
 いつの間に現れたのか、中洲桂子が無邪気な笑顔でゆるゆると言った。そのまま何事もなかったかのように航太郎や咲季に挨拶する。
「人徳ってな、昨日転校してきたばっかで人徳も何もあるかよ!? 俺がここまで差をつけられにゃならん理由は何だ?」
 橋本ががばっと詰め寄っても微動だにせず、一呼吸置いてからゆっくりと視線を天井に向け、「んとー」などと考えるそぶりを見せた。
「天神君には今のところ失点はないからかしら」
「俺の評価はマイナスかよ!?」
 がっくりと肩を落としてうなだれる橋本。
 中洲桂子、ぽややんとしている割になかなか毒舌家のようだ。橋本の扱いもどうかと思うが、「今のところ失点がない」も絶対に褒め言葉ではない。
「人徳じゃなくて顔(ツラ)の差だろ。どうせ俺なんてどこにでも転がってる顔だよ。けっ」
 橋本はすっかりいじけてしまったようだ。
 しかし、航太郎が見たところ、橋本はそれなりに端正な顔をしていると思う。ただし、口をつぐんでいれば、だが。
 かと思うと、いきなり勢いよく立ち上がった橋本が咲季に迫りながら言った。
「川端ぁ、俺も咲季って呼んでいいだろ? っていうか呼ぶ! 俺も名前で呼んでいいからさ、な?」
 咲季は近づく橋本の頭を右手で押さえて止めながら言った。
「別に名前で呼んだら殴る、なんて一言も言った覚えないわよ。好きなように呼んでちょうだい。でも、私からは遠慮しとくわ。だいたい、橋本君の名前覚えてないし」
 そう言えば航太郎も橋本の下の名前は知らないが、それは単に昨日の自己紹介で名字しか聞かなかったからに過ぎない。しかし、今まで同じクラスにいて、しかも昼食時に行動を共にする仲でフルネームを知らないというのはどうなのだろう?
 これまたショックだったらしい橋本は、両手両膝を床について悲しみに沈んでいる。
「まあ、橋本君のことは放っておいて」
 こんなことをさらっと言ってしまえる咲季もかなりいい性格をしている。あるいは、橋本がいつもこんなだから咲季も桂子も慣れてしまったのかもしれない。
「藤崎さん、おはよ」
「おはようございます、川端さん」
 声をかけられて、和水はわざわざ席から立ち上がって丁寧にお辞儀をした。その仕草は楚々とした容姿と相まって育ちのいいお嬢様にしか見えない。実際、鬼斬りという素性を考えれば、由緒のある旧家の出身である可能性が高いのだ。
「で、探し物は見つかった?」
 すとんと自分の席に座りながら咲季がにこやかに尋ねた。その視線は和水に向けられている。
「え?」
 唐突な質問に和水は小首を傾げてきょとんとしている。
「本よ、本。探し物があったから図書館に残ったんでしょ?」
 そこで航太郎も思い出した。昨日、咲季から一緒に帰らないかと誘われた和水は、「まだ探し物がある」と言って断ったのだった。
 和水は得心がいったように頷いて、航太郎のほうに視線を向けた。が、それも一瞬のことで、すぐ咲季に視線を戻して答えた。
「いいえ、残念ながら。いずれ時間のある時に参ります」
「そうなんだ。じゃ、もし手が要りそうだったら声をかけて。私たちも手伝うから」
 私たち? きわめて自然な咲季の提案だったが、その言葉の端が航太郎の意識に引っかかった。
「桂子と橋本君も手伝うわよね?」
「おう、俺でよければいつでも手を貸すぜ」
「私も。役に立つかどうかわからないけど」
 人がいいのか、藤崎和水とお近づきになるチャンスと見たのか、橋本と桂子は一も二もなく快諾した。そうしてきっちり外堀を埋めた咲季は、不敵な笑みを浮かべて航太郎を見やった。次にどういう言葉が来るかわからない航太郎でもない。
「もちろん、航太郎君もね」
「うう……はい」
 他にどう答えようがあるというのだ。この状況で一人だけ協力を惜しめば、完全に悪人ではないか。転校早々それは厳しい。
 難しい顔をしている航太郎を、和水は静かに見つめていた。が、かすかに顔を俯けたかと思うと、すぐに顔を上げていつもの柔らかい微笑みで言った。
「お申し出は大変嬉しいのですが、さほど大層なものではございませんので、皆さんの手を煩わすには及びません」
 一瞬俯いたその表情が寂しげに見えたのは、航太郎の目の錯覚だったのだろうか。
「航太郎君のことだったら気にしなくていいのよ。恥ずかしがってるだけだから」
 和水の表情の変化に気づいたのか、咲季が横合いからフォローを入れた。この際、その言葉が正しいかどうかは関係なかった。事実がどうあれ、自分の態度が和水を傷つけたことに変わりはなかったから。
「ええ、ですが本当にお構いなく」
 少し困ったようなはにかんだ笑みを浮かべ、和水は学生鞄から教科書一式を取り出して机にしまい始めた。
 咲季の目が咎めるように航太郎を見ていた。


 航太郎は行く手を二人の男に塞がれ、立ち止まった。体格ではこちらが勝っているものの、強行突破することはできない。とは言え、じっくり考える時間もない。
 進退窮まったところに背後から高めの声が飛んだ。
「天神、こっち!」
 その声に弾かれるように、航太郎は両手に掴んでいたボールを後ろの床に投げた。
 航太郎の手を離れたボールは、ワンバウンドの後に走り込んだ橋本の手に収まった。間髪入れずに橋本はふわりとループパスを放つ。
 不意に現れた橋本に気を取られて重心を前に傾け過ぎた二人の頭上をゆっくりとボールが越えていく。同時に隙を見て二人の間を駆け抜けた航太郎が高く跳躍する。
 上昇する途中でボールをキャッチした航太郎は、自分の体が最高点に達したところで再びボールを離した。十分に狙いをつけて。
 ボールは鈍い音を立ててリングに当たった後、ゆっくりとゴールネットに吸い込まれた。
 ホイッスルが鳴り渡る中、体育館の反対側でバレーボールの順番待ちをしていた女生徒たちの間から歓声が上がった。
「よーし、交代」
 体育教師の指示を受けて、航太郎たちはコートの外に出る。
「天神、お前って運動神経いいのな」
 少しずれた縁なし眼鏡の位置を直しながら橋本が興奮気味に駆け寄ってきた。そのまま右手を高く差し出してきたので、ハイタッチを交わす。
「ふふん、田舎育ちを甘く見ないでよね。ま、橋本のワンツーがバッチリだったのもあるけど」
「いやあ、投げた俺が言うのもなんだけど、あれを決めるとは思わなかったぜ。アリウープって言うんだろ」
「え、名前までは知らないよ」
 そんな話をしている間も二人には周囲からの視線が集まっていた。
「あいつ、いったい誰だ?」
「転校生だよ。昨日転校してきたらしいぜ」
 などとひそひそ言っているのは他クラスの生徒だろう。さすがにまだ同じクラスの生徒の顔さえ覚えきれていない航太郎だが、クラスメートたちは航太郎の顔くらいもう覚えているはずだ。新たに一人覚えるのと数十人を覚えるのは根本的に違う。
「すっかり注目の的だな」
 そう言って橋本は壁際に置いていたタオルで汗を拭う。
「珍しがってるだけだよ」
「それでも注目を集めてることに変わりはないぜ」
「橋本だって大活躍だったじゃないか」
 いかに身体能力が高いと言っても航太郎がゴールを量産できたのは、橋本がすばしこく動き回ってたびたび決定機を作り出したからに他ならない。橋本の俊敏な動きは、その体格的な不利を補って余りあった。くじ引きの結果とはいえ、航太郎と橋本が同じチームに入ったのは対戦相手にとっては不運だったとしか言いようがない。
「俺のはいつも通りだよ。バスケは得意なんだ」
 バスケに限らず他のたいていのスポーツも「得意」で済ましてしまいそうなノリだった。
「聞こえただろ、女の子たちの黄色い声。これからきっと大変だぜ」
 橋本は軽く顎をしゃくって女生徒たちのいるサイドに航太郎の視線を促した。
 誘われるままにバレーコートのほうを見ると、確かに休憩中の女生徒たちが航太郎たちを見て何やら囁き合っていた。そうやって注目を受けるなど今まではなかっただけに、背中がむず痒くなるような気分だった。もちろん、悪い気はしないのだけれど。
「て、転校生が珍しいだけだろ」
 照れ隠しにそう言うと、橋本がにやりと笑った。
「よく言うよ。満更でもないって顔に書いてあるぜ」
「そりゃ、嫌なわけじゃないけどさ……」
 橋本から目を逸らしながらそう答えると、女子のバレーボールが目に入った。
 コートの向こう側から、いまだ同じクラスなのかどうかも識別できない女生徒がサーブを打ち込むところだった。コースを過(あやま)たずネットを越えたボールを、後衛についていた女生徒がレシーブする。そのボールを前衛のセンターがトスすると、左にいたポニーテールの女生徒、藤崎和水が華奢な外見に似合 わぬしなやかな跳躍を見せ、鮮やかなスパイクを叩き込んだ。
 着地した和水のポニーテールが揺れる。それは、一昨日の晩に見たのと同じ髪型で、違うところと言えば長い黒髪を縛っているのが髪留め用の赤いゴムであることくらいだった。それでも着ている服が違えば、ごく普通の女子高生にしか見えなかった。
 体操服姿の和水は、制服の時の印象よりもずっとほっそりとしていた。露わになった腕も、ハーフパンツから伸びた脚も非力に見えるほど細い。
 しかし、ボールを追い、時として鋭く打ち返すその動きはしなやかで力強かった。動物に喩えるなら……。
「チーター……いや猫にしとこう」
 どちらにしてもぞっとしない。航太郎自身がガゼルと鼠のどちらに相当するかの違いでしかない。
「やっぱり藤崎が気になるんじゃねえか」
 橋本のからかうようなニヤニヤ声が聞こえる。航太郎がそれまでの考えを振り払う。いつの間にか視線が和水に釘付けになっていたようだ。
 と、橋本が唐突に尋ねた。
「意外だろ?」
 何が、とはっきり言わない問いかけだったが、航太郎は短く答えた。
「ああ」
 和水の真の姿を垣間見た航太郎にとっては、彼女の身体能力が高いであろうことは想定していたが、普段の和水しか知らない生徒たちには意外だろう。航太郎にしても、あの晩に和水に遭遇していなければ今のあの姿に驚いていたはずだ。
「人は見かけによらないって言うからね」
 話を合わせてそう答えると、橋本はうんうんと頷きながら腕を組んで続けた。
「それにスタイルもいいんだぜ。ま、大きさに限って言えば咲季のほうがちょっとだけ、と言ってもせいぜい二センチくらいだと思うけど、大きいんだよ。だけどさ、藤崎のほうが背が高くてウェストが細いだろ。その分スタイルがよく見えるんだよ……って、どうした?」
 何の大きさだよ、と聞き返す代わりに航太郎は溜息一つ、こう言った。
「お前、実は伊達眼鏡だろ」
 とても目が悪いようには見えなかった。それとも、橋本の眼鏡には何か特殊な装置が仕込んであるのだろうか。
「目がいいとか悪いとかの問題じゃねえよ。情熱の問題だ」
 自信たっぷりに胸を張って答える橋本。
「……説得力はまったくないけど、お前の情熱はよくわかった」
 つくづく外見の印象を覆してくれる男だと思った。こういうところがなければ女の子たちに可愛がってもらえそうな容姿をしているのに。本人がそれを喜ぶかどうかは別として。
 と、ローテーションで後衛に回る和水が航太郎たちに気づいたらしく、ふわりと微笑みかけた。橋本はすぐに両手を振って応えたが、航太郎は何となくバツが悪くなって俯いて目を逸らしてしまった。
 それもほんの一瞬の出来事で、和水はすぐに近くの生徒からボールを受け取ってサーブを打つ体勢に入った。
 球威、球速ともに申し分のないサーブが相手コートに突き刺さるのを見て感嘆の声を上げながら、橋本は呆れたような声で言った。
「手振ってやれとはこの際言わないからさ、せめてにっこり笑い返してやるくらいしろよな。ずっとそんな態度取ってると、いつか藤崎に刺されるぞ」
「……っ!」
 航太郎の肩がびくっと震えた。
「おいおい、本気にするなよ。冗談だよ、冗談。あの藤崎がそんなことするわけないだろ」
 橋本は笑い転げながら航太郎の過剰な反応をからかっていたが、当の航太郎にとっては笑えない冗談だった。おかげであの夜とその後の夢の中の光景がまざまざと甦ってきたではないか。
「ま、ああいう大人しそうなコほどキレた時は怖いからな。わかったらあんまり邪険にすんなよ。ほら、次、俺たちの番だぞ」
 そう言いながらタオルを置いてコートに向かう橋本を追いかけながらちらりと横目でバレーコートを見やると、出番が終わったらしい和水が汗を拭きながらこちらを見ていた。

Back/Index/Next

広告 [PR] 小説 ブックマーケット お見合い 無料レンタルサーバー ブログ blog