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鋭い刃が煌めいたかと思うと、恐怖に立ち尽くす航太郎に向かって振り下ろされ、次の瞬間には左肩から袈裟掛けに斬り下ろしていた。
「うわあああっ!」
大声で叫びながら身を起こす。はあはあとせわしなく荒い息を繰り返し、しばらくそのまま額の脂汗も拭わずに焦点の合わない目を虚空に漂わせた。
呼吸を整えて見回すと、そこがまだ見慣れない自分の部屋の、新しいベッドの上だとわかった。思わず左肩に手を当て、慌ただしく斜めに滑らせる。自分の体に斬られた傷がないことを確認して安堵のため息をついた。
「最悪だ……」
天神航太郎は苦々しい口調でそう呟くと、腫れ上がったまぶたの奥の目をどんよりと濁らせたまま、幽鬼のようなおぼつかない足取りでベッドから抜け出した。
転校初日だというのに寝不足で気分は最悪。壁のフックにハンガーで吊された学生服が視界に映る。転校先に合わせて新しくつけ直した金色のボタンが、今は嫌味に見えた。
これというのも昨夜のあの出来事で興奮しきった脳が眠ることを拒否してくれたせいだ。明け方にようやく微睡んだかと思えばこの夢見。カーテンと一緒に開け放った窓から吹き込んでくる朝の爽やかな空気の中でさえ、あの光景が脳裏に甦ってくる。
体が重い。せめてもの救いは家から学校まで徒歩十分程度で到着するということだろう。今まで通っていた田舎の学校は自転車で三十分という距離だったから。
航太郎の一家は昨日この街に引っ越してきたばかりだった。昼間は差し当たって必要な日用品の荷解きに費やしたが、夜になって満月があまりにきれいだったから近所を散歩してみる気になった。
なにぶん着いて間もない新しい街だから、よく道を覚えておかないと道に迷うことは間違いない。それでなくても自分に方向音痴の傾向があることは十分に自覚しているつもりだった。
そうして、マンションの近辺をうろうろとさまよっているうちに差しかかった神社の石段で、航太郎は月明かりを背に佇む薙刀の少女に出会った。
少女の口が紡いだ「鬼」という単語を耳にしてぞくっとしたのは、鬼という存在に恐怖や神秘を覚えたからではなかった。なにしろ、航太郎自身が鬼の血を引いているのだから。
天神家は現代日本では珍しい鬼の血を引く一族だった。鬼と聞くと、昔話によく出てくるような、人々を困らせる乱暴者の巨大な妖怪を想像するかもしれない。しかし、残念ながら航太郎の容姿はいたって普通。同年代の男子の中では背が高いほうには違いないが、航太郎くらいの身長の同級生は他にも少なからずいるだろう。
鬼と聞いて誰もが思い浮かべる角はない。角の生えた鬼などというのはペガサスやグリフォン同様、人々の想像上の産物でしかないのだ。
平安時代に重要視された陰陽道では北東の方角を鬼が出入りする方角であるとして鬼門と呼んだ。この北東が丑(うし)と寅(とら)の間、すなわち艮(うしとら)であることから、鬼は牛の角と虎の牙を持ち、虎の皮を身につけているとされたのである。
実際の鬼の容貌は人間とほとんど変わらない。強いて言えば、普通の人間に比べると整った容姿の持ち主が多いという程度だ。これについては航太郎とて例外ではない。生まれ育った鬼の村では平均的な顔立ちだったため目立たなかったが、こうして都会に出てみれば人目を引かずにはおかない容貌と言える。当の航太郎がそのことにまったく気がついていないのは、今まで周囲のレベルが高過ぎたからに他ならない。
話を戻そう。
薙刀で武装した少女が「鬼」という単語を口にしたことに、最初は反射的な戦慄を覚えただけの航太郎だったが、やがてその意味がじわじわと染み込んできた。同時に、腰から崩れ落ちそうなほどの恐怖に襲われる。無論、その対象は目の前の少女。
鬼斬り。
古来より鬼を討つことを生業(なりわい)としてきた武士の一門である。有名どころとしては大江山の酒呑童子を討ったと言われる源頼光(みなもとのらいこう)や、その家臣で頼光四天王の筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が挙げられる。一般的な人間社会では御伽噺の主人公として親しまれている桃太郎も鬼斬りの代表格であり、鬼の末裔の間では恐怖の象徴となっている。今でも中国地方にすむ鬼の末裔たちは桃を嫌うと言う。
その後、時代と共に鬼族が人間の社会に同化していくことで表面上の区分がなくなっていったこともあり、中世以降は表舞台から姿を消した鬼斬りだったが、現代に至るまで歴史の影に暗躍を続けてきたとされている。
などと、子供の頃から祖父母に聞かされてきた話が航太郎の脳裏に走馬燈のように駆け巡っている間にも、薙刀の少女はゆっくりと、軽やかな足取りで石段を下りてきた。
昔話に聞いていた鬼斬りが幻想的な美しさをまとって、今まさに航太郎の目の前にいるのだ。一刻も早く逃げなくてはと思いながらも、足が竦んで動けない。ただ、無様に腰を抜かさないように立っているだけで精一杯だった。
石段を下りきった少女は航太郎の正面に立った。薙刀を持った右手に緊張はなく、刃は無造作に下ろされていたが、この間合いであれば予備動作なしで一息に航太郎を下段から斬り上げることさえ可能だろう。
不審な動きを見せれば死が待っている。その恐怖が航太郎から呼吸さえも奪っていく。
間近で見る少女は、月明かりに誘われた精霊と見紛うほどに美しかった。青ざめて震えている航太郎と対照的に少女の微笑みはどこまでも柔らかい。夜の闇に溶けてしまいそうな漆黒の髪は、露わになったうなじの白さを際だたせている。
もしも昼間に、何も知らずに出会っていたなら、美形揃いの鬼たちの中で育った航太郎であっても見惚れていたことだろう。
「かような晩には、あまり外を出歩かぬほうがようございますよ。特にあなたのような方は」
囁くような声音で発せられたその言葉は、航太郎の恐怖を煽るに十分だった。
こちらの正体を見抜いているという明確な警告。それは次に夜道であったら斬るという意志表示か。いや、もしかしたら既に次などないのかもしれない。
しばらく少女は航太郎の反応を窺っている様子だったが、何も言葉を返せずにいるうちに痺れを切らしたのか、ゆっくりと肩を引いた。
やられる、そう感じた航太郎は逃げ出すこともできずに目をつぶった。
が、恐れていた衝撃はいつまで経っても来ない。薙刀が風を切って迫る音の代わりに聞こえてきたのは、儚げな響きさえ残る少女の声だった。
「では、いずれまた」
呆気に取られた航太郎がこわごわ目を開けると、少女は背を向けて立ち去っていくところだった。
その後ろ姿を見送りながら、航太郎はその場にへたへたと座り込んだ。
思い出しただけでも身震いする。できれば夢であって欲しいとさえ思う。確かに見とれるほどきれいな少女だった。しかし、いくら何でも相手が悪い。鬼斬りの少女など、鬼にとっては天敵に他ならない。あの口ぶりから、航太郎が鬼だということはばれているはずだ。今度会ったら殺される。もう会うことはないと思いたいところだが、同じ街に住んでいる以上、油断はできない。残念だが、警告に従って夜中の散歩は自粛せざるを得ないだろう。
そんなことを考えながら学校への道を歩いていた航太郎だったが、校門が見えてきたところでほんの少し気持ちを引き締めた。
何はともあれ初めての転校。せめて気分だけでも颯爽と歩いてみようと思ったのだ。
しかし、俯き加減だった顔を上げたところで、驚きのあまり足が止まった。
反対方向から校門へ向かってくる生徒たちの中に、昨夜の少女の姿があった。長い黒髪をまっすぐ下ろしたセーラー服姿にはちょっとしたお嬢様といった清楚な佇まいがあり、月光の下で見た幻想的な雰囲気とはかけ離れていたが、それでも見間違えようがなかった。
まずい。航太郎の脳裏に昨夜の恐怖が甦ってくる。逃げるか隠れるかしなければ。さすがに衆人環視のこの場で殺されることはないと思うが、ここで見つかれば後々命を狙われる可能性は高い。
きょろきょろと辺りを見渡すが、遮蔽物になりそうなものは何もない。逃げるか、そう判断して身を翻そうとしたところで、少女とがっちり目が合ってしまった。少女は束の間、驚きに目を軽く見開いたが、すぐに暖かい微笑みを浮かべて近づいてきた。航太郎にはその視線が獲物を見定めたチーターのように感じられ、昨夜と同じように足が竦んで動けなくなった。
「これほど早くに再びお会いできるとは思いませんでした。同じ学校とは存じ上げず、失礼いたしました」
少女は心底申し訳なさそうにそう言った。
ほんの短時間会っただけだから忘れているのではないか、いや、そもそも他人の空似ではないのか、そんな淡い期待は霧と消えた。
これほどの美少女が自分のことを覚えていたことは普通ならば感激ものだけれど、現実は残酷だった。その時に航太郎が抱いていたのは、転校初日の出会いに運命を感じるような甘酸っぱい気持ちではなかった。高鳴る胸の鼓動よりは血の気の引く音が聞こえてきそうなくらいで、頬を染めるどころか顔面蒼白だ。
「え、あ、その、今日、転校してきたばかりだから……」
どうにかそう答えると、少女はふわりと喜色を浮かべた。
「左様でございましたか。私(わたくし)は藤崎和水(ふじさきなごみ)と申します。平和の和に水と書いて『なごみ』でございます。失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「てっててて、天神航太郎と申し上げます」
派手にどもった上におかしな言葉遣いになってしまった。
最後の望みにかけて何とか正体を隠しきろうと思った航太郎だったが、その失態にすっかり絶望に沈んでいた。きっと怪しまれたに違いない。
ああ、短い人生だった。こんなところで終わるのなら、もう少しやりたいことやっておけばよかった。父さんのバカ。どうしてこんな都会に転勤になったりするんだよ。栄転だなんて喜んでる場合じゃないよ。と言うか、どうして田舎で大人しく家を継がなかったんだ。下手すると一家全滅だよ?
いや、今や天神家の命運は僕にかかっている。たとえ、この身が朽ち果てようとも、家族のことは一言もしゃべらないぞ。父さん、母さん、その間に逃げてくれ。ああ、でも拷問は嫌だなあ。黙り通せる自信ないや。もうこの際、今ここで土下座して命乞いしようかな。でもそんなことしたら自分から正体ばらしてるようなものだよな。
追い詰められるとたちどころに妄想が逞しくなる航太郎だった。
表情を目まぐるしく変遷させながら妄想に逃避している航太郎を見て、藤崎和水はクスクスと控えめに笑った。
「ふふふ、面白いお方。以後、何卒よろしくお願いいたします」
お嬢様、それは逃がさないという意思表示ですか? 隙あらば斬り捨てるってことですか? お願いします、神様。もしも僕の日頃の行いを認めてくださるなら、この人とは別のクラスにしてください。それで余命が劇的に伸びることはないかもしれませんが、少なくとも精神的な重圧は和らぎます。というか、そもそも同じ学年?
パニック状態に陥った航太郎にできたのは、そう神に祈ることだけだった。
結論から言えば、神は航太郎を見捨てた。
職員室で引き会わされた担任の教師に校舎の二階まで案内され、促されるまま教室に入ると、既に着席していた生徒たちのあちこちから男女問わず溜息が漏れた。
悪かったな、可愛い女の子じゃなくて。そこまで露骨にがっかりすることはないじゃないか。そもそも女の子までがっかりするのはどういうことだ?
航太郎は心の中でそんな悪態をつきながら教室をぐるりと見渡し、そして表情を凍りつかせた。
一番後ろの席で、藤崎和水と名乗った朝の少女がふわふわと微笑んでいた。
その笑顔を見た時には心臓が止まるかと思った。その場で退学届を出そうかと一瞬本気で考えたくらいだ。
その隣、窓際最後部の特等席が無人なのも看過できない。その主が遅刻か欠席なのだと思いたい航太郎だったが、他の席がすべて埋まっていることを考えればその望みは薄い。
果たして、担任が航太郎に座るように指示したのはその空席だった。
目が悪いと主張して席を変えてもらおうかとも思ったが、結局観念した。ちなみに田舎育ちの航太郎の実際の視力は両目とも二・五である。
この世の終わりのような表情でとぼとぼと教室を縦断する間、頭の中には「断頭台への行進」がおどろおどろしく流れていた。しかし、新しいクラスメートたちは単に緊張の表れとでも受け取っているのか、誰一人として気遣いなど見せなかった。
今なら蛇に睨まれた蛙の気持ちがよくわかる。隣で微笑むお嬢様に斬り殺されるより先に、胃に穴が開きそうだ。
右隣の席ばかりが気になって他に意識が向かない中、前からつんつんと左肩をつつかれた。理科の実験中に間違って感電したかのようにびくりと体を震わせながら顔を上げると、女の子が目を丸くしてこちらを見ていた。思わず引っ込めたらしい指が中途半端にさまよっている。
「な、何? そんなに驚くことじゃないと思うんだけど」
耳に心地よいきれいな声だった。ほんの少し驚きの色が混じって聞こえるのは気のせいでも何でもなくて航太郎のせいだろう。
「ご、ごめん」
まさか、命を狙われているからなどと言うわけにもいかず、航太郎はただ一言謝っておくに留めた。
改めて見るとセミロングの髪を肩に流している快活そうな女の子だった。見るからに害のない女子高生だが、隣にいるもっと害のなさそうな少女にいつ殺されるかわからない現状を考えれば、邪気のない微笑みさえも警戒してしまうのは仕方がない。
「何だかすごく緊張してるみたいだけど、もしかして天神君って人見知りするほう? 大丈夫よ、誰も取って食いやしないから。私は川端咲季(かわばたさき)、見ての通り前の席だからよろしくね。わからないことがあったら何でも聞いて」
あ、でも勉強のこと以外でお願い、と付け加える涼やかな微笑みにさえ思わず怯えてしまう。取って食われることはなくても斬り殺される可能性はある、と反論したかったが、事情を知らない人間には妄言にしか聞こえまい。航太郎自身、自分が命の危険に怯えて暮らすことになるなどと、昨日の夜までは思いもしなかったのだ。
「よ、よろしく。あ、僕は天神……」
「知ってるわよ。さっき自己紹介してたでしょ」
川端咲季は黒板に書かれたままの航太郎の名前を指で指し示しながら呆れたように言った。航太郎は恥ずかしさで真っ赤になってしまった。
その時になってようやく、ホームルームが既に終わって一時限前の短い休み時間に入っていることに気がついた。初日から担任の先生の話など何も聞いていなかったことを申し訳ないと思ったが、自分はまさしく蛇に睨まれた蛙なのだから仕方がないと正当化することにした。
そう考えながら横目にちらちらと隣をうかがう航太郎の様子に、咲季は何かを察したかのようにニヤニヤ笑いながら航太郎に顔をずいっと近づけ、耳元で囁いた。
「もしかして藤崎さんのこと、気になるの?」
なる。すごくなる、航太郎は心の中でそう即答した。もっとも、その理由は咲季が想像しているのとはまったく異なるのだが、本当のことを言ったところで頭がおかしいと思われるに違いない。
だから航太郎はごまかすことにした。
「別に気になるってわけじゃ……」
しかし、咲季はその反応を見てますます嬉しそうに顔を近づけてくる。
「隠さなくたっていいじゃない。そうよね、藤崎さんって美人だもんね。私と違ってお淑やかだし」
お淑やかなお嬢様は抜き身の薙刀持って夜道を歩いたりしません。そう言い返したかったが、それは藤崎和水にとっては秘密とも言えることのはずだ。身近な人間にあっさりと暴露しようものなら確実に死期が早まる。
それに、美人という枠で括るなら咲季だって十分その範疇に入る。櫛を入れればどこかで引っかかりそうな無造作な髪型を見る限り、確かにお淑やかからは程遠い印象だが、それだけ活発な雰囲気があって親しみやすそうだ。
「あ、そうだ。天神君、教科書は持ってる?」
「え、うん、一応揃ってるはずだけど」
鞄の中から一限目の教科書類を取り出しながら答えると、咲季は残念そうに溜息をついた。
「そっか。もしまだだったら私から藤崎さんに見せてもらえるように頼んであげたのに」
「それは勘弁して」
切実な思いで懇願すると、咲季はふふっと軽く笑った。
「そうよね、それくらい自分で頼めるわよね。お節介言っちゃってごめん。性分なの。あ、先生が来た。じゃ、また後でね」
そう言って咲季は前を向いてしまう。自分で頼めるかどうかと言われれば、おそらく無理、と答える他ないのだが、どうやら航太郎の返答を違う意味で取ったようだ。何にしても精神衛生上、忘れ物は絶対ないようにしなければならないだろう。
授業終了のベルが清々しい音で鳴り渡り、昼休みの到来を告げる。
ずっと右隣の少女の挙動に怯えて過ごし、もう疲労困憊だった。おかげで転校初日から居眠りするなどという失態は犯さずに済んだ。
もちろん、授業中に居眠りしたからといって、その隙に殺されるわけでもあるまいが、油断は禁物。不真面目な姿を見せれば死期が早まらないとも限らない。
それはともかく、差し当たっては可及的速やかにこの場所を離れる必要がある。ちらりと横目に見ると藤崎和水は机の上に和風の弁当を広げている。ならば、屋上でもどこでもいいから別の場所で弁当を食べることにしよう、そう考えた航太郎は横に掛けた鞄を机上に置いた。
「天神君、お昼はどうするの? 私たち、食堂に行くんだけど、一緒にどう?」
いいタイミングで咲季が声をかけてくれた。他にも男女一人ずつが一緒だった。三つ編みの少女と、縁なし眼鏡をかけた小柄な少年。おそらくは咲季の友人だろう。
「弁当持ち込みでも大丈夫かな?」
「え、天神君お弁当なの? うーん、うちの食堂ってそんなに広くないから、持ち込みはダメなのよね。禁止ってわけじゃないんだけど、暗黙の了解というか」
残念そうな咲季。
「そっか。だったら仕方ないね。また誘ってよ。僕はどこかその辺でお弁当食べるから」
航太郎がそう言うと、咲季は隣で弁当を広げている和水を見ながらニヤリと笑みを浮かべた。嫌な予感。
「教室で食べないの? せっかくだし藤……」
「わああっ! ほら、天気もいいし、外で食べたい気分かなって」
案の定、咲季が不穏なことを口走ろうとしたので、航太郎は慌てて言葉を遮りながら鞄の中をまさぐった。
「あれ?」
確かに朝、母が弁当を作っていたはずなのだが。
「どうしたの?」
「お弁当、忘れたみたい」
どうやら、寝不足と精神的ダメージでぼーっとしていたため、弁当を鞄に入れるのを忘れたらしい。
「だったら問題解決ね。一緒に食堂に行きましょ」
そう提案してくる咲季はやたらと嬉しそうだ。
そもそも問題というわけでもないし、せっかく作ってもらった弁当が無駄になってしまったことのほうが問題のような気はしたが、ひとまず教室を離れることができるのだからよしとすることにした。心の中で母に手を合わせて謝っておく。
「うん、よろしく」
「そうと決まったらさっさと行こうぜ。俺、もう腹ぺこだよ」
縁なし眼鏡の少年がそう言って急かす。それから思い出したように航太郎のほうを向いて言った。
「あ、俺は橋本(はしもと)ってんだ。よろしくな、天神」
すると、三つ編みの女の子もついでとばかりにぽつりと呟いた。
「中洲桂子(なかすけいこ)。よろしく」
「じゃ、行きましょうか」
咲季がそう言って一同を促した。
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