お姉さまとお呼び


 平穏な日々を望んでいたはずの祐巳だったが、祥子さまに初めてタイを直していただいたあの日から、そんな願いはマリア様にことごとく却下される運命となってしまったらしい。もちろん、そのおかげでたくさんの大切な人に出会えたし、たくさんの大切な思い出を作ることができた。そう思えば、それまで16年間生きてきてほとんど出会ったことのなかったような大変な出来事が次々と起こるこの1年の日常もいとおしいものに感じられる。もっとも、騒ぎの真っ最中にはおたおたしてしまって、お得意の百面相を所構わず披露してしまうことになるのは相変わらずなのだけれど。
 何はともあれ、祥子さまの妹(スール)になった時と同様に、いや、今回はあの時以上の紆余曲折を経て、祐巳は瞳子ちゃんを妹にすることができた。
 一度離れかけた心を結び直すのはとても難しい。でも、難しいからこそ二人の結びつきはより強固なものになるのだ。ちょうど初夏の雨上がりの祐巳と祥子さまのように。


 瞳子ちゃんが祐巳のロザリオを受け取って、まだ日が浅い。できたてほやほやの姉妹(スール)ともなれば、新婚夫婦よろしく四六時中べたべたしていると思われがちだ。でも実際にはそんなことはない。むしろ、二人の関係が変わったことによってギクシャクしてしまうことが多いのだ。それは昨年の祐巳と祥子さまの場合も同じ。
 でも、その経験があるから祐巳にはわかる。まだお互い慣れていないだけ、姉妹という新しい関係に戸惑っているだけなのだ。だからこそお姉さまとして、瞳子ちゃんが感じているに違いない不安を和らげてあげなければいけない。
 ……とは思っているのだが、妹になっても瞳子ちゃんはなかなか手強いもので、そうそう気を許してはくれない。まるで新しくやって来た子猫のよう。祐巳が早く打ち解けようと近づいても警戒を緩めてくれないのだ。もちろん、そういう素直じゃないところも瞳子ちゃんの可愛さなのだけれど、祐巳としてはちょっと物足りない。由乃さんと令さまみたいに、というのは無理でも、せめて志摩子さんと乃梨子ちゃんくらいには自然に接することができればいいのに。
 それに祐巳にはもう一つ悩みの種があった。
 だから、祥子さまには申し訳ないけれど、その日の帰りは瞳子ちゃんと二人にしてもらうことにした。
 マリア様の前で二人で手を合わせた後、祐巳は切り出した。
「瞳子ちゃん、これからは祐巳さまと呼ばれても返事をしないことにするからね」
 一年ちょっと前に祥子さまに言われたのと同じ言葉だった。
 というのも悩みというのは他でもない。瞳子ちゃんがいつまでも「祐巳さま」から抜け出してくれないのだ。自分がそうだったからわかるのだが、慣れないうちは「お姉さま」と呼ぶのは気恥ずかしいものだ。だから祐巳もまだそっとしておくことにした。しかし、祥子さま……じゃなくてお姉さまからお小言があったのだ。あなたは瞳子ちゃんの姉になったのだから、きちんと「お姉さま」と呼ばせるようにしなさい、って。
 もちろん、祐巳だって瞳子ちゃんに「お姉さま」と呼んでもらいたい。もしかしたら呼ばれる立場になってもドキドキして百面相してしまうかもしれないけれど、瞳子ちゃんだって、一年前の祐巳ほどでないにしても、きっと照れくさくて赤くなることだろう。そんな瞳子ちゃんの表情を想像すると思わず顔が緩みそうになる。おっと、いけないいけない。ここが勝負どころ。たとえ「祐巳さま」と呼ばれても祥子さまのようにつんとすましてそっぽを向いてみせなくては。
 すると瞳子ちゃんは、赤くなってもじもじするどころか、お得意の少し意地悪そうな微笑を浮かべて、
「では、私のことも『瞳子ちゃん』ではなくて『瞳子』と呼んでくださいますか、お姉さま」
「え……」
 思わぬ反撃に祐巳はその場で凍りついてしまった。あまりにもあっさり発せられた「お姉さま」は、呼んだ瞳子ちゃんよりも呼ばれた祐巳の方に大きな効果を発揮したようで、気恥ずかしさに顔が火照ってくるのがよくわかった。まるで自分が自分でないような不思議な感覚。なのに、瞳子ちゃんの方は憎たらしいくらいに平然として、祐巳の返答を待っている。
 瞳子ちゃんにとっては何でもないことなのだろうか。今までそう呼んでくれなかったのも深い意味はなくて、変えるのが面倒だとかそういう理由なのだろうか。もしかしたら、本当はまだお姉さまだと思ってくれていないのではないか。考え方がネガティブな方向に走ってしまい、祐巳は寂しくなった。
「……ぅこ」
 結局、姉になっても自分の役回りは変わらないということか。でも、呼び方を変えるというのは、やっぱり祐巳にとっては気恥ずかしいものであって、1年やちょっとで平気になるものでもないらしい。
「お姉さま、聞こえませんわ」
 瞳子ちゃんは、これ見よがしに「お姉さま」を連発して迫ってくる。
 その時。
 まったく余裕のない祐巳だったけれど、それでも見逃すことなくはっきりと気がついた。瞳子ちゃんの目が一瞬だけ不安に揺れるのを。そしてもう一つ。特徴的な縦ロールの髪に隠れた耳にほんのりと赤みが差しているのを。
 ああ、そうか。
 瞳子ちゃんは意地を張っていたんだ。祐巳がいつまで経っても「瞳子ちゃん」としか呼ばないから。それに、表情には出さないけれど、やっぱり瞳子ちゃんだって恥ずかしいのだ。けれども、相変わらず素直じゃないからそんな表情はおくびにも出さない。さすがは女優。
 けれども。
 これではお姉さま失格ね。祐巳はそう感じずにはいられなかった。瞳子ちゃんの、いや、瞳子の気持ちに今の今まで気づくことができなかったのだから。瞳子のような妹を持つからには、その仮面の裏の素顔に気づいてやれるくらいの甲斐性がなくては。
 でも、まだ大丈夫。少し出遅れたけれど、祐巳は瞳子の本心に自分で気づくことができた。あとは、それに応えるだけ。
 祐巳は大きく深呼吸をした。飾る必要はない。いつもの自分らしく振る舞えばいい。それでも、祐巳はお姉さまなのだから、少しは余裕のあるところを見せたいではないか。もう手遅れかもしれないけれど。
 まっすぐ瞳子を見つめる。その視線に瞳子が軽く息を呑み、白い肌がわずかながら色づいていく。
「瞳子」
 少し上ずってしまったけれど、落ち着いて言えたと思う。やけになって叫ぶわけでもなく、声を震えさせるのでもなく、偽りのない気持ちを呼び名に込めて。
「はい」
 瞳子はもう隠すこともなく頬を赤くして嬉しそうに微笑んだ。そんな瞳子の顔を見ているうちに嬉しくなって祐巳は声を上げて笑った。つられるように、瞳子も笑った。そうして、二人でしばらく笑い続けた。
 名前というのは不思議だ。呼び名一つで世界がすっかり変わって見える。瞳子は祐巳の妹。祐巳は瞳子のお姉さま。今までとは違う、そんな新しい関係が実感を帯びてくる。
 ひとしきり笑った後、祐巳は不意に瞳子の右手を取ると、少し強引に引っ張って走り出した。学園祭の時にエイミーの手を引いて走ったように。
 マリア様、はしたない振る舞いとお怒りにならないで、今日だけはお許しください。
「ゆ、祐巳さま? 急にどうしたんですか?」
 やっぱりね。さすがの瞳子ちゃんでも、こういう咄嗟の事態には対応できないようだ。それを見越した祐巳のちょっとした仕返しだった。
「違うでしょ、瞳子」
 声を弾ませながらたしなめる。
「あ……」
 瞳子の手を引いて前を走る祐巳からは顔を見ることができないが、きっと今度こそ恥ずかしそうに俯いていることだろう。
 わずかな逡巡の後に、瞳子の手が祐巳を強く握り返してきた。
 そして。
「お姉さま……」
 瞳子の声はいつになく歯切れが悪かったが、吹き抜けていく風の中で祐巳の耳にはっきりと届いた。
「なあに?」
「もう少し、このままで」
 異論などなかった。このまま瞳子の手を引いてどこまでも走り続けたいと思っていたのだ。だから祐巳は何も答えず、つないだ手の力を強めた。


     あとがき


 ごきげんよう、林原 悠です。突発的「マリみて」二次小説。新刊『仮面のアクトレス』の発売を前に、こんな姉妹になれたらいいね、という期待を込めた「祐巳×瞳子」支援作品です。新刊発売前に書いていますので、当然、新刊の内容と矛盾が出る可能性があることはご了承ください。
 着想が一発ネタだったため短めです。書き始めた当初は瞳子にやり込められて終わりのはずだったのですが、祐巳さんもレベルアップしているようで、私の意に反する行動を取って反撃してくれました。
 新刊、楽しみです。

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背景画像:Atelier Kanon

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