短くも美しく燃え(前編)


 小径にうっすらと積もった雪を踏みしめながら、一組の若い男女が登っていく。舗装されていない田舎道の白粉に軽い足跡を残しながら、ふたりの足取りはどことなく落ち着かず慌ただしい。キョロキョロと辺りを窺いつつも決して後ろを振り返らず前に進み続けるふたりの後ろで、ちらちらと降る雪が少しずつ足跡を消していく。
 人気もなく、雪に覆われた山里だが、雪山と呼べるほど厚く閉ざされているわけでもない。それでも薄化粧を纏った風景は美しいと表すに足る。観光客であればしばし足を止めて写真でも撮っただろう。しかし、ふたりはそんな景色も目に入らないかのように黙々と先を急いでいた。
 ふたりとも年の頃は二十歳くらいである。男の方が女よりも少し小柄で、黒いロングコートに黒のソフト帽、コートの中の服も黒という黒ずくめの姿。長い前髪が顔の片側にかかっている。女の方は長い艶やかな黒髪を赤いコートの背中に流し、整った顔に円らな瞳が印象的だ。隣の男が小柄なために、モデルのようなすらりとした体型が際だって見える。



 歩き続けて鄙びた温泉地にたどり着いたふたりは町外れの小さな宿を選んで門をくぐった。
「いらっしゃい」
 元気の良さそうな女将が出迎える。
「一泊……か場合によっちゃ二、三泊だが、空いてるか?」
 男はぶっきらぼうな調子で尋ねた。
「見ての通り、景気が悪くてね。客なんていやしないよ。何日でも好きなだけ泊まるといいさ」
 女将の方も随分と馴れ馴れしい口調だが、ふたりは安堵感を示した。その表情に女将の顔も綻ぶ。
「新婚旅行かい? いや、新婚旅行でこんなところには来ないね。部屋は一部屋でいいんだよね?」
「ん? ……ああ」
 顔を赤くして少し言い淀んだが、男は頷いた。
「ご夫婦だろうね。台帳に名前をいいかい?」
 女将はそう言いながら台帳とボールペンを差し出した。男はペンを取るとさらさらと名前を書き込んだ。
『伊達雪之丞』
 それから男はペンを女に渡した。女はペンを手に少し躊躇いを見せたが、やがて意を決したように頷くと男よりも整った字で書きつけた。
『伊達かおり』
 書き終わった女の顔はすっかり赤く染め上げられていた。女の手の動きを見つめていた男も照れたように顔を赤らめている。
「おやおや、やっぱり新婚旅行だったかね。だったら、いい思い出にしてあげなきゃね」
 女将は恥ずかしげにもじもじしているふたりを後目に元気な声でそう言うと、ついて来いと合図して階段を上りはじめた。



 案内された部屋は眺めのいい部屋だった。「新婚旅行」のふたりに気を利かせた女将が一番いい部屋に通してくれたのだ。荷物を片隅に置き、畳の上で一息つくふたり。何を話すともなくお互いの様子をちらちらと窺う。
「寒かっただろう? とにかく温泉に入りな」
 ふたりの様子にクスクス笑いながら女将が勧めた。
「うちはこの通りのボロ宿だけどね、温泉だけは自信があるんだ。露天なんだよ。しかも混浴さ」
「な、何!? 分かれてないのか?」
「こ、困りますわ!」
 慌てて異論を唱えるふたり。
「いいじゃないのさ? 仲良く夫婦水入らずってね。お湯はたっぷり入ってるけどね」
 気の利いたことを言ったつもりなのか、自分で笑いながら女将は部屋を出ていった。
 ふたりの心臓が一気に高鳴っていく。
「ゆ、弓……」
「は、はい……」
「さ、先に入ってるぞ」
 雪之丞は恥ずかしそうにそう呟くと支度をして部屋を出ていった。



 雪之丞は温泉に浸かりながらこれまでのことを考えていた。
 先程雪之丞が呼んだ通り、かおりの姓は『伊達』ではない。弓かおり、弓式除霊術の総本山・闘竜寺の跡取り娘である。もちろん新婚旅行でここまでやって来たわけでもない。ふたりは駆け落ちしてきたのである。



 数か月前、ふたりの親友のカップルが結婚式を挙げた。横島忠夫と氷室キヌのふたりである。
 かおりの高校時代からの親友だったおキヌは横島と同じ美神除霊事務所でアシスタントを勤めていたが、周囲の誰が見てもわかるくらいの一途さで横島に恋をしていた。ただ残念ながら当の横島本人がなかなかその想いに気づかなかったことと、おキヌ自身が積極的に行動を起こせなかったこととで、その恋は長いこと実らなかった。
 きっかけは横島が高校卒業と同時に美神除霊事務所の正社員として雇用されたことだった。横島は、長い間美神令子に時給二百五十五円という信じられないような薄給で働いていたのだ。
 美神の横島に対する思いを知っていたおキヌだったが、美神が素直になれずに横島を酷く扱っていたため、ある程度は安心していられたのである。そこへ極端な待遇改善である。おキヌは焦った。このまま美神が一気に巻き返して横島の心を持って行ってしまうのではないか。
 おキヌの横島に対する態度は目に見えて変わった。さすがの横島もおキヌの想いがただの同情でも友情でもないことに気づき、彼女のことを強く意識するようになった。
 そうしてついに横島はおキヌに交際を申し込んだ。おキヌが一も二もなく受け入れたことは言うまでもない。
 ふたりはその後数年間、恋人としてつき合い続けていたが、おキヌが二十歳になった今年、晴れて結婚することになったのである。
 結婚式に出席した雪之丞とかおりは、幸せそうな横島とおキヌの姿に心を打たれた。その帰りに、どちらからともなく切り出したのだ。結婚しよう、と。



 早速、雪之丞は闘竜寺のかおりの両親の元に挨拶に向かった。緊張でガチガチになりながらも、雪之丞は精一杯の誠意で弓住職に一人娘との結婚を許して欲しいと切り出した。
 ところが、弓住職はそんな雪之丞の言葉を一蹴した。そればかりではない。
「かおり、この際だから言っておくが、お前には既に許嫁がいるのだ。今まで黙っていたことは悪かったと思うが、その男との結婚は認めない。伊達くん、君も諦めていただきたい」
 その言葉にふたりともがそれぞれにショックを受けた。厄介払いをするように寺を追い出された雪之丞は、その後どのようにして部屋に帰り着いたかわからないほどだった。
 数日間を意気消沈して過ごしたある夜のことだった。雪之丞の部屋の戸をノックする音が聞こえた。そのリズムはふたりで決めた特別な合図。自分たちだけが知っている合図だった。弾かれたようにドアを開けたその向こうには、小さなボストンバッグを持ったかおりが立っていた。
 寒さに白い息を吐き出しながら、かおりはこう言った。
「雪之丞、私を連れて……逃げて」



 雪之丞はすぐに身の回りの荷物をまとめると、すぐに横島の住むマンションに向かった。親友たちに挨拶をしておきたかった。これが最後になるかも知れない、そんな不吉な予感さえしていたから。
 結婚を機に引っ越した横島とおキヌの新居には、一文字魔理、タイガー寅吉、ピエトロ・ド・ブラドーの三人も呼び出されて集まっていた。雪之丞とかおりは、彼ら全員に自分たちの決断を伝えたのである。
 おキヌは泣いていた。他の皆もそれぞれ顔を曇らせながらも応援の言葉をかけてくれた。
 横島は泣いている妻を慰めながらもふたりにこう言った。
「いいか、どんなことがあっても、俺たちは……弓さんの味方だ」
「ちょっと待て。俺はどうなるんだ?」
 雪之丞が反論すると、居合わせた全員が笑った。こうして笑い合える日が、また来るのだろうか、誰もが寂しく心の中でそう呟きながら。
「落ち着いたら、連絡くれよな。そのうち遊びに行くからさ」
 沈みそうな空気を推し量って、横島はおどけた調子でそう言った。
「ああ。また……近いうちに会おうな」
「皆さんも、お元気で」
 そしてふたりはこの大都会から姿を消した。



 雪之丞が親友たちの顔を思い出していると、誰かが湯に入ってくるがわかった。客か。ん? ちょっと待て、他には客はいなかったはずじゃないのか!?
 慌てて振り返った先で湯に浸かっていたのは、長い黒髪を頭の上に結わえたかおりだった。肩から上をちょこんと湯面から出して雪之丞の方に静かに近づいてくる。たった今浸かったばかりだというのに既に顔も肩も真っ赤になっている。
 露わになった鎖骨の下、微かに見え隠れするふたつの豊かな膨らみが雪之丞には眩しかった。たちまちかおりに劣らず真っ赤に染まる。
 一言も交わさないまま、かおりは雪之丞の隣までやって来た。互いに肩が触れ合う距離で、ふたりは俯いたままじっとしていた。
 不意にかおりが微かな声で呟く。
「落ち着き……ますわね」
 嘘である。ふたりとも落ち着くどころではなかった。弾けんばかりの激しさで鼓動を続ける心臓は、たちどころに湯あたりを起こしそうに危うい。
 それでも雪之丞は頷いた。
「……そうだな」
 その一言が合図になったかのように、かおりは雪之丞の肩に頭を預けた。
 夢見るような目つきでかおりが詩を暗誦し始める。
「希望は輝く、家畜小屋の一本の藁屑のように。
 狂ったように飛びまわる酔いどれ蜂がなぜ怖い?
 ごらん、太陽の光はいつだって隙間を見つけて差し込むさ。
 おやすみなさいよ、テーブルの上に肘ついて……」
「何だ、それ?」
「ヴェルレーヌですわ」
「悪いな、そういうのはあんまり知らねえんだ」
「ふふ、謝るようなことではありませんわ」
「そっか……。その、何だ、よくわかんねえけど……いいな」
 かおりは何も答えなかった。しばらくの沈黙の後にかおりは言った。
「ねえ、雪之丞。……私たちに、太陽の光は差し込むのかしら?」
「……」
 雪之丞は何も答えない。
「ねえ、『短くも美しく燃え』って映画をご存じ? スウェーデンの映画ですの。戦争中に軍人と踊り子が恋に落ちて、逃亡しますの。当然、脱走兵には追っ手がかかるわ。お金も尽きて逃げられないと悟ったふたりは覚悟を決めて、野原で最後の食事を取るの。踊り子の目の前に一羽の蝶々が現れて……」
「やめろよ」
 不吉な想像をかき立てる話を続けるかおりを雪之丞は制する。だが、気丈に見えてもやはり不安でいっぱいなのだろう、かおりは話をやめない。
「踊り子はその蝶を追いかけはじめますの。ようやく踊り子の手が蝶に触れた瞬間、映像が止まって銃声が二発……。そして音楽が流れはじめるの、モーツァルトのピアノ協奏曲。柔らかくて透明で、長調なのに何故かもの悲しいモーツァルトが……」
「やめろ」雪之丞はぶっきらぼうに言ったが、すぐに表情を和らげた。「約束したじゃねえか、横島たちと。『また会おう』って。弓、お前を幸せにしてやるなんて俺にはとても言えねえ。でもよ、一緒に幸せになろうぜ。そのためにこんなとこまで来たんじゃねえか」
 その言葉を聞くやかおりは雪之丞にすがりついた。プライドの高いかおりが我を忘れて泣きじゃくり、肩は不安に苛まれて震えていた。普段は見上げるその肩が、今の雪之丞にはとても小さく見えた。
(やっぱり……女の子なんだな)
 雪之丞は心の中だけで呟いて、震える肩をそっと抱いた。



 布団は一組しか敷かれていなかった。暗闇の中、ふたりは互いに背中を向けて体内の血液を猛烈な勢いで循環させていた。ふたりとも今日一日で一生分の心拍数を使い果たすつもりかも知れない。
 駆け落ちまでしておいて何とも純情な話だが、実はこんな状況に置かれたのは初めてだった。厳しい家庭で育ったかおりは雪之丞と恋人同士になってからもガードが堅く、キス以上のことを許そうとはしなかった。実際にはこういう世間知らずなお嬢様ほどあっさりと男に身を委ねてしまいがちなのだが、かおりには生真面目なところがあった。プライドの高さも大きく影響を及ぼしていたに違いない。
 そんなわけで、互いの心音が聞こえそうなほど近くで背中合わせになって、ふたりは蛇に射すくめられた蛙のように身じろぎもせず横になっていたのである。蛙との違いは脂汗を流す代わりに顔を真っ赤に火照らせていたことくらいだろうか。
 だが、ついにその均衡が破られる時が来た。
 不意に雪之丞は肩に温かくて柔らかい掌を感じた。掌はゆっくりと腕を伝って降りていく。雪之丞は体の前に流していた腕をそっと持ち上げた。かおりの手はついに雪之丞の掌まで届く。雪之丞は小さな掌を優しく握りしめた。かおりも雪之丞の手を握り返してくる。
 そこに至って雪之丞は静かに振り返った。すぐ目の前にかおりの顔があった。暗闇に慣れた目でも細部は確認できないが、かおりの円らな瞳が潤んで微かにきらめいているのがわかる。かおりと手をつないだまま、雪之丞は首だけを近づけてかおりとそっと唇を重ねた。優しく、今にも壊れそうなガラス細工を愛おしむように。
 ふたりは惹かれ合う磁石のように近づき、ひしと互いを抱きしめた。
「弓……」
 雪之丞が声を漏らす。
「いつまでそんな呼び方をしますの? 私はもう弓の名を捨てたのよ」
 精一杯拗ねてみせるが、恥ずかしさは隠し切れない。
「かおり……」
 そう呼び直しながら、かおりを抱きしめる手に少しだけ力を入れる雪之丞。かおりもそれに答えるように雪之丞を抱き返し、雪之丞と再び唇を合わせる。先程よりも強く、互いの思いの丈を乗せて、貪るようにふたりは口づけを交わしていく。
 暗闇の中、ふたりの影がひとつに重なった。



「氷室神社? 知らないねえ。この辺なのかい?」
 雪之丞たちの質問に首を傾げながらも女将はこう答えた。
「御呂地村にあるはずですわ」
 確認するようにかおりが言い足すと、ポンッと手を打って女将が頷いた。
「ああ、御呂地村かい。それだったらほら、あの山が御呂地岳だ。その向こう側にあるのが御呂地村だよ。その神社の縁者さんなのかい?」
「え、ええ……友人の実家ですの」
 微かに口ごもりながらもかおりは本当のことを言った。
「世話になったな」
 雪之丞は相変わらずのぶっきらぼうな様子だが、それでも女将には彼なりに心から感謝していた。
「何、このとこお客も少なかったからね。こちらこそありがたいさ」太陽のように笑いながら女将は言うと、声を落としてつけ加えた。「あんたたち、ちょっとわけありなんだろ?」
「な……」
 慌てふためくふたり。
「こんなとこに来る若い男女はたいていそうさ。観光ならちょっと先の人骨温泉の方が有名だものね。それに、あんたたちの様子を見てりゃわかるよ。伊達に田舎で長く宿やっちゃいないさ」おどけたようにそう言ったが、不意に愁いを帯びた表情になる。「でもね……早まるんじゃないよ。生きてりゃきっといいことがあるんだ。それを忘れちゃいけないよ」
 女将にも何か嫌な思い出があるのだろうか。遠くを見るような目は今までの明るい表情とは印象を異にしている。あるいは、心中した宿泊客がいたのかも知れない。
「心配なら無用だぞ。俺たちはそんなに往生際のいい方じゃなくてな……」
 雪之丞はそう言って笑った。そしてかおりを促す。
「では、女将さん。ありがとうございました。お元気で」
「ああ、あんたたちもまた来てくれよ」

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