「少女」と「未来」


「おキヌちゃん、横島クンから何か聞いてない? あのバカ、昨日から無断欠勤してるのよ」
「さあ、私には何も……」
 言いつつ、とりあえず自分の携帯の着信履歴を調べるおキヌ。予想通り、横島からの着信はない。
「電話、してみましょうか? 何か事情があるのかも……」
 いらついている令子を気遣うように、おキヌは言ってみる。手の中の折りたたみの携帯電話は、開かれたままだ。
「いいわ、おキヌちゃん、悪いけどちょっと様子みてきてくれる? いくら何でも、部屋で干涸びてはないと思うけど……」
 ちらと、デスクの中にある横島の給料袋をみる。
(まさか、給料前だからって、あいつ、餓死してないでしょうね……?)
 令子の脳裏を、新聞の見出しがよぎる。
『あわれ大都会の孤独死! 薄給のアルバイト高校生餓死! 労働基準法違反、未必の故意による殺人! 除霊業美神令子容疑者(20)逮捕!!』

 令子の顔から血の気が音を立てて引いていく。
 給与が少ないのを気にはしているようだ。
「わ、私、ちょっと見てきますね!」
 令子の異様な雰囲気を感じたおキヌは、あわてて事務所を出て行く。
 事務所に残った令子は、おキヌが走っていく足音を聞きながら、その想像を振りほどこうと、あわてて思考をかえた。
(そうよ、横島クンの生命力は妖怪以上だもの、なんでもないわよ、どうせ、くだらない理由でさぼってるに決まってるわ、そうよ、そうに決まってるわ!)
 しかし、令子の顔は笑ってはいたが、引きつっていて、ぎこちなかった。



「横島さ〜ん、いますか? 横島さん?」
 横島のアパートにやってきたおキヌ。ドアを叩くが、返事はない。
 しかし、横島の霊気は、部屋の中から感じる事ができる。
 ドアには鍵がかかっていて、このままでは開けられない。もう一度横島を呼んでみる。
『おキヌちゃんか? よかった、助かった!』
 何度目かの呼びかけにようやく横島が応えた。
 しかし、ドアの鍵はいっこうに開かない。何かをしようとしている気配はあるのだが。
 しばらくして、ようやく横島が出てきた。しかし、ドアは開かれていない。横島は、幽体だけでドアを『壁抜け』して出てきたのだ。
「よ、横島さん、どうしたんですか!? それ?」
『い、いや、どうも寝ぼけて文珠を暴走させたらしいんだ。目が覚めたら、こんな事に……』
「体には戻れないんですか?」
『う〜ん、どうも文珠の所為で、霊体のままじゃ体に近寄れないみたいなんだ。給料前で、最近何も食ってないから、体がだいぶ弱ってきるみたいで、魂の緒もどんどん細くなってるんだ。おキヌちゃんのときみたいに、何でも触れる訳じゃないみたいだから、美神さんにも連絡できなくて、困ってたんだ』
 焦っているのか、横島の顔はだいぶ青ざめている。
「できるかどうかわかりませんけど、私が幽体離脱して鍵をあけてみますね」
『すまないねぇ、おキヌちゃん……』
 情けなく涙を流す横島。
 言うが早いか、おキヌは既に霊体になって、横島の部屋の壁を抜けていた。
 苦もなく、ドアの鍵を解除する。
『とりあえず、中に入りますよ、横島さん』
『あ、あぁ、何とかして……』
 そそくさとおキヌは体に戻り、横島の部屋に入っていく。
 寝床に転がる横島の本体を見つけるなり、今の今まで横島の幽体と話をしていたのを忘れてしまったかのようにパニックを起こす。
「きゃーっ! 横島さん! 死んじゃダメぇっ!! 起きてぇっ!!」
 叫びながら、おキヌは、横島の胸ぐらをつかんだままべちべちと横島の頬を叩く。まるで横島が死んでしまったかのような反応だ。厳密には死んではいないが、魂が肉体から離れている今の状態は、ある意味横島は死んでいると言えるだろう。
『お、おキヌちゃん、俺ここにいるんだけど…………』
 一緒に入ってきた横島は、本体の1メートル手前で自分を指差し、止まってしまっていた。おキヌの予想外の反応で、あっけにとられているだけではない。文珠の効力で、横島の霊体はこの位置以上に本体に近づく事ができなくなっていた。
 もっとも、文珠の出力はかなり落ちているらしく、昨日よりだいぶ近づく事ができているのだが。
「はっ! す、すみません! 私ったら、取り乱しちゃって……」
 我に返ったおキヌは、あわてて横島の本体を探る。文珠を見つけ、取り上げなければ横島は本体に戻る事ができない。
 やがて、おキヌはようやく横島の左手から、(離)が刻まれた文珠を見つける。(離)は、幽体離脱の離として作用したようだ。
 とりあえず横島の手から文珠を取り上げ、ゴミ箱へ放り込む。もっともゴミが溢れ出し、ゴミの下敷きとなったそれに、きちんと入るはずもなかった。
「横島さん、もう大丈夫ですよ、文珠はもうありませんから。」
『た、助かった! これで体に戻れる! ありがとう、おキヌちゃん!!』
 横島は嬉々として本体に霊体を重ねた。
 おキヌはほっとしながらも、横島の次の行動が予想できた。いつもなら、ここで抱きついてくる筈なのだ。
 飛び起きようとした横島は、事実、おキヌに抱きつくつもりでいた。
 しかし、そうはいかなかった。
 体を起こそうとした横島は、体から力が抜けていくような感覚に襲われた。体に力が入らない。
「お、おキヌちゃん……」
「ど、どうしたんですか? どこか痛むんですか?」
 真剣な顔で横島の顔を覗き込むおキヌ。もし、大事なら、病院へ連れて行かねばならない。
 応急処置にと、両手に霊気を溜め、ヒーリングに備える。
「おキヌちゃん……」
「ハイッここにいます!」
 おキヌはかなり心配している。目は真剣そのものだ。
「は……腹減った…………」
 同時に横島の腹の虫が大きく鳴る。
 おキヌの体から、一気に力が抜ける。その顔は、安心したとも、あきれたとも言える複雑な表情だった。
「お、おなかすいたんですか?」
「ああ、おとといから何も食ってないんだ。金が底をついちまってな……。このあいだまでは文珠でなんとか保たしてたんだけど……」
 盛大に腹を鳴らす横島。この数日、文珠の(栄)と(養)を使ってなんとかだましだまし保たしていたらしいが、文珠を搾り出す霊力もなくなり、仕方なく、とりあえず寝て空腹を紛らわそうとしたらしい。
「で、夢の中で文珠に(離)を念じたら、どうもほんとに文珠を発動しちゃったらしいんだ。で、霊体が本体からはじき出されちゃったんだと思う」
 困ったような顔で、おキヌに事の次第を話した。
「はあ、そうだったんですか……」
「とりあえず、事務所に出勤すれば何か食えると思ってたんだけど、幽体離脱しちゃってるわ、体には戻れんわで、どうにもなんなかったんだよ」
「あ、あの、私、何か作りましょうか?」
 おずおずとしたおキヌの申し出に、横島の顔が明るくなる。
「え? い、いいの? 美神さんにも連絡しなきゃなんないし……」
「いいんですよ。美神さんには私から連絡しておきます。でも、食べるものがないんなら、そういってもらえれば、私がいつでもご飯くらいは作りますよ。私、横島さんのためだったら……。あっ! い、いや、わ、私何か材料になるもの買ってきますね」
 おキヌは少し慌てたように、材料の買い出しに出かける。
「やっぱり、横島さんには、私がついてなきゃダメね……」
 横島が、幽体離脱してしまうほどに追いつめられたのは、自分のせいではないかと、自責の念に駆られながらも、おキヌは献立を考える。
 自分がもっとしっかりしていれば、横島は文珠で空腹を紛らわさなければならないほど、追いつめられる事はなかった筈だと……。
「もっと私が横島さんの側にいられたらな……」
 おキヌに、ある種の願望のようなものが芽生える。
 もっと横島と一緒にいたい。そう思うのは、自責の念ではない。
 馴染みのスーパーへとおキヌは急ぐ。



 一方、アパートに取り残された横島。
「ええコやな〜。優しーし、かわいいし。それに今は幽霊じゃなくて、生身だもんなぁ」
 食料の心配のなくなった横島は、涙ながらにそう思った。ふと、横島の脳裏に煩悩の陰がちらつく。
「やっぱ、美神さんより絶対ポイント高いよな〜。でも、美神さんのあの胸もまた捨てがたいし……」
「しかし、あのはち切れんばかりの乳のために俺はあそこで働いてるみてーなもんだしな」
 この場に令子がいたら間違いなくどつかれ倒しているような妄想を膨らます横島。
 そんな横島に、あるものが見えた。そのあるものは、妄想の世界に突入しかけていた横島を一気に現実の世界へと引き戻した。
 そう、そのあるものとは、先ほどおキヌが放り出した文珠である。
 丸二日も作動状態のまま放置していた文珠は、かなり出力が落ちているが、それでもまだ危険である事に違いはなかった。
 なんとかその文珠を無効にするように、相殺、あるいは消滅させなければならなかった。
「やべ……、どうしたらいいんだろう……」
 うかつに触れてしまうと、また幽体離脱してしまう可能性があった。横島は文珠を、作る事はできても文珠を、消滅させる方法を知らなかった。
 それに、今の横島の頭脳では(離)の文珠を相殺させる漢字が思い浮かばなかった。そもそも、文珠をひねり出す事は、今は不可能だろう。
 しかし、おキヌは先ほど、モロに文珠に触っていたが、何ともなかったようだ。しかし、横島はその事に気づいていない。
「ど、どないしよう……えらい事になってしもた……」
 顔を引きつらせ、考え込む横島。と、そんな横島をあざ笑うように突然文珠が強く光る。
 そして消滅した。霊気のエネルギー切れである。
「消えた……」
「こ、これでええんか? なんかあっけないな〜」
 今の今まで文珠のせいで体に戻れなかった横島は、何となく不満を感じた。もう少し待っていれば、文珠は勝手に消滅し、自分も体に戻れた筈である。
 しかし、逆に考えれば、文珠のおかげでおキヌがアパートに訪ねてきたようなものである。
 これはやはり、ラッキーと考えてもいいのではないだろうか。そんな風に横島は考えた。
 もちろん、事務所を無断欠勤してしまった事実はかわらないから、令子の鉄拳制裁は十分に考えられる。
 怒りに任せた令子が、おキヌの連絡を受けて襲撃してこないとも限らない。
「美神さん、怒っとるやろうな〜」
 横島の顔が引きつる。
 突然、部屋の片隅においてある、ゴミに埋まってしまった電話が鳴った。タイミングからして令子からだろうと横島は思った。
 おそるおそる横島は電話をとった。
「は、はい。横島です」
 その声は少し震えていた。空腹のためだけではない。
 電話の主は、やはり令子だった。
横島ぁっ! おキヌちゃんから聞いたわよ、寝ぼけて文珠を暴走させたあげく、幽体離脱して戻れなくなったですってぇ!?」
「ひっ! すっすんません! でも、仕方なかったんスよー! こないだから何も食ってなくて、仕方なく文珠でだましだまし保たせてたんスよ〜」
 令子はかなり怒っているようだ。横島は必死の言い訳で応戦を試みる。少なくとも嘘は言ってない。しかし、たとえそれが嘘であろうと、真実であろうと、怒り狂う令子に言い訳は寸分たりとも通用しない。
「あんた、それでもGSなの!? 自分の能力にのみこまれちゃってどうすんのよ!!」
「すっすんませんっ! すんません!!」
 言い訳の応戦もむなしく、もはや謝り倒すしかない横島。下手なことを言って令子の怒りを助長するより、よほどいい。それに何よりも、令子が怖い。その一点にあった。それに、令子の言っている事は師匠としても、上司としてももっともで、スジが通っている。
「……心配させんじゃないわよ……」
「へ?」
「あ、お、おキヌちゃんから、今日は休みにしてあげてって言われてるから、あんた今日は休みでいいわよ! どうせ、二日間も文珠作動させっぱなしじゃ体力よりも霊力がついてこないでしょ! 今日は大きな依頼もないから、あんたは休んでなさい! 霊力も体力もないあんたは何の役にも立たないんだから!!」
 そういうなり、令子は乱暴に、それも一方的に電話を切った。
 令子は、令子なりに心配していたのだ。横島の体の事もあるが、やはり、給料が少ないせいで従業員が餓死したとあれば、事務所の信用も落ちるし、寝覚めが悪い。そう令子は思っていたが、自分が思う以上に、横島の事だけが心配だった。
 もちろんそんな事は令子は自覚してないし、自覚していても、絶対口には出さなかった。出てくるのは、思ってもいない悪態だけだ。
「ああ、やっぱり美神さん怒ってるよ……。明日よ〜く謝っとこう……」
 ツーツーと、機械的な音を立てている受話器を持ったまま、横島は呆然としていた。
 明日出勤した際のメガトンパンチと、そこからつながるコンボのリンチが目に浮かぶ。
 想像しただけで気が重くなってくる。
 腕がその気の重さに負けて受話器をおろした。
「ああ、えらい事になってしまった……」
 自分の迂闊さを悔いる横島。
 そもそも左手に持っていた文珠は、栄養の(栄)にするつもりだった。しかし、肝心の(養)の文珠を搾り出すだけの霊力が残っておらず、(栄)の字を練り込む霊力も気力も失せて、諦めてそのまま眠ってしまったのだ。
 今にして思えば、なぜ、自分の得意分野である妄想をもって、煩悩を源とする霊力を増幅させる事を思いつかなかったのか。そう思うが、空腹のあまり、冷静な判断力に欠け、なおかつ食欲が性欲を駆逐してしまって、煩悩が働かなくなっていたのだと思う。
 丸二日も眠ったままとなっていた本体は当然何も食事をとっておらず、また、悪魔ナイトメアと戦って、三日間眠りっぱなしだった時のように、病院にいる訳でもないので点滴による栄養補給さえも行われていない。
 つまり、横島は体力的にも霊力的にも、衰弱状態にあった。が、そこはそれ。横島の生命力である。たとえ丸二週間食事をとらなかったとしても生き延びる事ができるだろう。それでも、この期に及んでまだ煩悩が頭をもたげるというのはやはり横島ならではと思う。
「まだおキヌちゃんが出てってから10分もたってないのか……。」
 横島は、ちらと時計を見て思った。やたら時間の経過が遅いと思うが、空腹が限界にきているのだから、仕方がないかと思う。
「おキヌちゃんが戻ってくるまで、何もしないって訳にもいかんよなー?」
 おキヌが戻ってくるまでの間に、部屋を片付けようと思うが、どうにも体が動かない。空腹のせいだけではない。横島にとって、部屋の片付けなどは面倒で、あまりやりたくなかった。だから、横島の部屋は、いつも荒れ放題に荒れている。
 これが、いつもの給料前くらいの事なら、令子とおキヌと、どちらを選ぶかで一人叫んでいたりするのだが、さすがにそんな元気は残っていない。さらに追い討ちをかけるように先ほどの令子からの電話だ。
 この上さらに煩悩全開になるのであれば、横島は本物の妖怪かもしれない。
 まず常人ではない。それは、まず間違いなく言えるであろう。
 こんな横島の苦悩は、まだしばらく続きそうである。



「横島さん、きっと喜ぶだろうな〜♪」
 おキヌは、近所のスーパー『マルヤス』に、食事の材料を買いにきている。かなりご機嫌のようだ。
「よお、おキヌちゃん、お使いかい?」
「あ、こんにちは。ええ、ちょっと♪」
 売り場にいるおキヌを見つけた店の主人が親しげに声をかける。
「カレシんとこに飯でも作りにいくのかい?」
 主人は笑いながら親指を立てる。
「や、やだ、おじさん、横島さんとは、そんなんじゃ……。キャーッキャーッ!」
「わ、おキヌちゃんっ! よしなって!」
 おキヌはテレのあまり、思わず商品のネギで主人の頭をしばきまくる。真っ赤になって錯乱している。
 当然、ネギはもはや売り物にはならない。さんざん主人をしばいた後、ようやくおキヌは正気に戻り、その事に気づいた。
「あ……! ご、ごめんなさいっ! わたしったら……つい……」
「ま、まーいーって事よ! おキヌちゃんの事だ、おおめに見らぁ。それに、ネギ一本で目ぇ吊り上げるこたぁねぇさ」
 主人はうつむいてしまったおキヌを気遣い、強気な笑い声を上げた。
 おキヌに横島の話題を出すと、必ずこうなる事はわかっていたのだが、やはり、照れてしまって錯乱するおキヌがあまりにかわいいので、思わずやってしまうのだ。この辺りは、横島と大してレベルはかわらないかもしれない。
「ほんとに、すみません。ちゃんと、おネギの分もお金は払いますから……」
「おう、いいってことよ! 気にするこたぁねえ。おキヌちゃんだから、特別だぜ!」
 そういってレジを打つ主人は、やはりネギの代金を入れていない。
 相変わらず、豪快な笑い声を上げている。ほんとに楽しそうだ。
 主人としては、おキヌが店に来るだけでも十分なのだ。おキヌがまだ幽霊の頃、近所のアイドルとして有名だった彼女が来るようになってから、ずいぶん売り上げも伸びている。
 ネギの一本や二本は主人にとって、店の収益的にも、とるに足らない事だった。それに、おキヌが店にいるだけで、気持ちが和らぐ。そんな癒しの力を、主人は感じていた。
「また寄ってくれよな! ハハハッ!」
 真っ赤になって頭を下げまくるおキヌを気にせず、笑い声を上げる主人。
 おキヌはさすがに気まずくなってその場から走って逃げ出してしまった。
 料理の材料の入った袋の中から、へろへろになってしまったネギが顔を出していた。
 その足は、横島のアパートへと急ぐ。大好きな横島のもとへ……。



「ああ……腹……減った……」
 机に頭を転がした横島。もはや空腹のあまり、何も考えられなくなっていた。
 一時は、部屋を這い回るゴキブリさえも、なんとか調理して食えないものかと思ってしまった。
 しかし、いくら横島といえども、あと少し待てばおキヌが食事を作ってくれる。そんな状況であえてゴキブリを食うようなまねはしない。
 プライドも、多少はある。そのわずかばかりのプライドさえも勝ってしまうのだからまだ平気と言えなくはないが、それでもプライドが勝つようならまだ平気だというのは、絶対に嘘だと思った。
「死にはせんだろうが……」
 誰にとはなく呟く。横島の呟く言葉にもはや意味はなかった。
 何も考える事ができず、ただ机に突っ伏している横島の耳に、アパートの外階段を上ってくる足音が聞こえた。
 横島の救いの女神、おキヌが帰ってきたのだ。
 その音を聞いた横島は、急に表情が明るくなった。現金なものだ。ついに飯にありつける。そう思った。これで四日ぶりの食事になろうか。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
 よほど急いで帰ってきたのだろう、息を切らせたおキヌが玄関の扉から入ってきた。横島には後光がさして見えた事だろう。
 うれしさのあまり、目には涙が溜まっている。
「すぐに作りますね。うんとおいしく作りますから、たくさん食べてくださいね♪」
 おキヌが優しく微笑み、台所に消えていく。
 やがて、普段は米を研ぐか、カップ麺の湯を沸かすくらいにしか使わない狭い台所から、久しぶりに家庭的な音が聞こえてきた。
 幸せの音。横島にとってはそう聞こえた。まるで新妻の料理を待つ新婚家庭のようだと横島は思った。
 うれしさと幸せのために、横島は感激の涙を流している。
(ああ、おキヌちゃんが俺のために飯を作ってくれてる……。やっぱいいコだよな〜)
 動けなくなるほどの空腹はどこへやら。横島は、おキヌとの結婚生活を妄想していた。
 朝はおキヌの朝食を用意するまな板の音で目覚め、朝食のあとのキスで出勤。
 昼食は、おキヌの作る、大きなハートマークの入った愛妻弁当。
 仕事を終えて帰宅した横島を待つのはおキヌの笑顔。
 優しく微笑み、『おかえりなさい』
 夕食のあとは、一緒に風呂に入って……。



「……さん、……こしまさん横島さんっ!
 おキヌの声ですっかり顔の緩んだ横島は現実の世界へと引き戻された。
「あっ! ごめんごめん、どうしたの?」
「もうっ! 横島さんたら、呼んでもちっとも返事してくんないんだから」
「もうすぐご飯ができますから、お部屋を片付けましょう」
 飯台の上を片付けるおキヌは、少しすねたようないたずらっぽい表情で横島に部屋の片付けを促す。
 横島の部屋は、常識的にはとてもではないが、食事のできるような環境ではない。食べたあと片付けられる事もなく放置されたカップ麺の容器。敷いたままになっている布団。布団を中心に、部屋中に散乱する雑誌類。作りかけのまま、途中で飽きてしまったプラモデルの部品。部屋の片隅に積み上げられたゴミ袋。脱ぎ散らかした衣類。
 常人ならこの環境下での食事を強要されれば、拒否するか逃げ出すに違いない。
 たまにおキヌが訪れては部屋の掃除をするのだが、一ヶ月もすれば元通りになってしまう。
 これは彼女にとっても悩みの種になっていた。
 しかし、菩薩のごときおキヌはそれに対して、不服を言う事もなければ、悪態の一つもついた事がない。
 それどころか、横島の世話を焼く事が幸せになりつつあった。
 おキヌはなれた手つきで、横島の部屋を片付けていく。当の住人である筈の横島の方が何をどこに片付ければよいのか困っていた。
 てきぱきと働くおキヌのおかげで横島の部屋は、30分ほどであらかたきれいになる。おキヌとしてはいまいち納得がいかないのだが、これ以上時間をかけて空腹の横島に負担を強いるわけにはいかなかった。
「うんっ! お掃除終わりっ! さあ、横島さん、おまちどおさま。ご飯にしましょ♪」
 おキヌがご機嫌に微笑んで飯台に料理を並べていく。
 今回の献立は、何日も空腹のままだった横島の胃腸をいたわり、焼き魚とワカメの酢の物、それに野菜のサラダとなっていた。あまり脂っこいものをいきなり胃に入れては、胃が受け付けないだろうとの思慮で、さっぱりしたものを中心に献立を考える。
「んまいっ! やっぱりおキヌちゃんの作ってくれた飯は最高やなぁ!」
 喜色満面におキヌの手料理をほおばる横島。その隣には、嬉しそうに微笑みながら一緒に食事をとるおキヌがいた。
「まだありますから、おかわり言ってくださいね。」
 今の横島には、おキヌの笑顔に神々しささえ感じていた。
 他をいたわる大きな愛があるが故に、おキヌはネクロマンサーの笛さえも使いこなしてみせたのだ。おキヌが、愛を司る女神の化身ではないかと思うのは考え過ぎではあるまい。
 横島の部屋にある一番大きなボウルと鍋の中身がなくなるのに、そう大した時間を必要としなかった。
「ごちそうさま!」
「お粗末さまです」
 すっかり満腹になった横島は、幸せいっぱいといった顔で箸を置いた。
 それは、数日ぶりの食事にありつけ、満腹になったからだけではない。おキヌの優しさを、確かに受け止めた幸せが合わさり、最悪の数日から一転して、最高の佳き日となったからだ。
 おキヌも、自分の用意した料理をすべて平らげ、この上ない満足と幸せを顔いっぱいに表現している横島を見て、やっぱり作ってよかったと思った。これを女の幸せというのかなと思う事は、決して古い考え方でもない。
「あ、横島さん、ほっぺにご飯粒がついてますよ」
「え? ほんと?」
 あわてて頬を探る横島。だが、どこにもご飯粒などはない。
「ここですよ♪」
 おキヌが、横島の頬からご飯粒をとって、食べてしまう。
「なんか、横島さんて、かわいいですね♪」
「おキヌちゃ〜ん……」
 横島をからかうようにおキヌが微笑む。
 二人は、夫婦のように食後のひとときを楽しむ。
 すっかり体力を取り戻した横島(彼の驚異的な回復力もある)は、食事の後片付けを手伝いながら改めて、結婚生活とはこんな風なものなのかなと感慨にふけっていたりする。
 事実、楽しそうに後片付けをしているおキヌは、まさに新妻。同時に、おキヌも横島と同じ事を考えていた。
(横島さんと結婚したら、毎日がこんな風なんだろうな♪)
 横島に感化されたのか、おキヌにも多少の妄想癖の気があった。
 彼女は、既に妄想の中で既に横島の妻となり、新婚生活まっただ中であった。それは、現在の状態を夫婦生活に置き換えただけとなり、現実と妄想の境を曖昧にする。
 鼻歌を歌いながら茶碗を洗う自分は、すでに氷室キヌではなく、横島キヌ。愛する夫は今日も優しく、自分と一緒にいてくれる。
 彼女もまた、幸せいっぱいとなっていた。そして、妄想と現実の境が曖昧なそのまま、飯台を拭いている横島に、話しかけてまう。
「忠夫さん、もう洗うものはありませんか?」
「ああ、こっちはもう片付いて……って、どうしたのおキヌちゃん?」
「はい?」
「いや、突然『忠夫さん』なんて。いつもは、俺の事は『横島さん』なのに」
 おキヌのちょっとした変化に気づいた横島。しかし、当のおキヌはまだ結婚生活の妄想から抜け出していない事に気づいていない。
「何言ってるんですか? もう私だって横島なのに、いつまでも『横島さん』じゃおかしいでしょ?」
 くすくすと笑いながら、洗い物を終えたおキヌが居間に入ってくる。おキヌは、未だに妄想の世界にいる。
「おキヌちゃ〜ん、どうしちゃったんだよ、一体」
「イヤだわ、忠夫さんたら、照れちゃって。先週、式を挙げたばかりなのに」
「式? 何の?」
「もう、結婚式に決まってるじゃないですか。ほら、指輪だって、ちゃんと……」
 おキヌが差し出した指には指輪などない。
「……!」
 はっとなったおキヌの顔から微笑みが消える。
 ようやく現実の世界に戻ってきたおキヌ。ここにいる自分は横島キヌではなく、氷室キヌである。頬を、一気に真っ赤に染める。
「ごっ! ごめんなさい! 私ったら、何訳のわかんない事を……」
「いや、いいんだよ。おキヌちゃんの気持ちはわかるから……。実は……、俺も、にたような事考えてた」
 恥ずかしさで真っ赤になりながら、あうあう言っているおキヌに、横島も照れくさそうに頬をぽりぽりと掻く。
「ごめんなさい、横島さん」
「いいんだよ、おキヌちゃん。」
 横島は、自分が驚くほどおキヌに優しくなれる自分に気づいた。そっとおキヌの手が横島の手に重なる。
「……一つだけ、わがまま言っていいですか?」
 気がつくと、二人は肩を寄せ合うほどに近づいていた。おキヌの細く、つややかな蒼い髪の隙間から、紅く染まったおキヌの頬が見える。
「今だけ……今だけでいいから、今は……、横島キヌでいたいんです。」
 横島は、おキヌにかける言葉を見つけられなかった。
 だから、言葉の代わりに、そっとおキヌの肩を抱く。おキヌも、横島の無言の優しさに、静かに、そっと、横島の胸に顔を埋める。
 横島の手が、おキヌの髪にそっと手櫛を通す。おキヌの髪は、素直に指の間を通る。
 おキヌの頬に、一筋の雫が伝う。
「忠夫さん……」
 日もすっかり沈み、街は夜に包まれ、夜は、そっと若い二人を包んだ。
 そして、夜は更けて行き……。
 満天の星だけが、二人の未来を知っていた……。



     あとがき

  私のつたない作品をお読みいただき、誠にありがとうございます。
 本作品は、私の二次創作としては初めての作品になります。それ以前にも趣味でオリジナル小説の執筆などを行っていたのですが、このような場をお借りしての公開は初めてで、公開の場をお貸し下さるだけでなく、文章的にもご指導いただいた林原様には、なんと言って御礼申し上げればよいか分かりません。
  今回、この作品を書くことを決めましたのは、初めて林原様のHPを訪れたとき、林原様の作品に触発され、眠ってしまったはずの創作意欲に、再び火が点いたためです。
 このことを、メールにて林原様に持ちかけてみたところ、勿体なくも、私の作品を読んでいただけるとのことでしたので、執筆に踏み切った次第でございます。
  作品については、今回の作品には具体的に「いつ」といった時間軸を設定しておりません。
少なくとも、「おキヌちゃんが美神事務所に復帰したあと」のお話となっておりますが、あくまで「美神事務所」の日常の中のハプニングを書いてみたかったという理由から、あえて時間軸を設定せずにストーリーを組み立ててみたわけです。
  趣味で小説を書いていたときからブランクが7年もあったせいか、文章的にはひどくつたないものとなってしまいましたが、私がこの作品の中で、何を描きたかったかを察していただければ幸いに思います。
  最後となりましたが、ご指導・ご協力いただいた林原様、この作品を読んで下さった皆様、誠にありがとうございました。重ねて厚く御礼申し上げます。

      作者・深井零

Index

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